土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

狭間

今日のこれは日記というか、若者によくありがちな悩みとか苦しみとかの吐露です。

まとまってませんけどまとめてないので、そういうものだと思ってください。

 

 

理想と現実のギャップに悩まされるというのはよくある話だが、今まさにそのよくある話のギャップの中にある。

 

世間を賑わすコロナウイルスは、あれよあれよという間に私の生活にもその手を伸ばしてきた。

バイト先である中山競馬場や、愛すべき船橋競馬場をはじめとした南関東競馬各場もまた観客の皆様を受け入れないこととした。就職活動の形も大きく変わり、大学の合同説明会がなくなったり、面接がSkypeになったり、ついていくのがやっとといった状態だ。

 

そして、私の人生を変えたと言っても過言ではないミュージカル団体もまた、コロナの手によってもたらされた混乱の中でもがいている。

 

本来我々が目指していたゴールが閉ざされ、別の道を模索しなくてはならないとなった。

私の頭の中には二つの思いが巡った。

 

会計の任を負った者として、また、メンバーを導き見守る者のひとりとして、頑張ってなんとか形にしてモノを残そう。メンバー達に私が去年感じたモノを感じてもらいたい。なんとかやり遂げよう、という思いがひとつ。

 

ここまでの打撃を受けて、目指したゴールにも辿り着けない。現実的に考えて、別の道では私が去年感じたようなモノはメンバーに感じてもらうことはできない。となると、目標も見失った中、どうすればモチベーションは保てるのか。プツリと張り詰めたものが切れてしまったような、そんな虚しさのような思いがひとつだ。

 

 

 

議論が進む中で上から示された代替案は、私の中では納得の行くものだった。将来なりたいもの、得たいスキルや体験から考えれば、むしろベターとも言えるものだ。

しかし、周りはそんな人ばかりではなかった。

二十人と少しの幹部メンバーは、似通ったものもあったが皆それぞれに意見を持っていた。

 

本来目指していたゴールへの未練のようなモノを口にする者もあった。わかる。非常にわかる。志半ばで、目に見えないものにその道をねじ曲げられ、へし折られた。この無念は私も大小の差はあれ感じたものだし、その悲しみは推し量るに難くない。

 

 

ところで、私にとってクリエイション(創造、創造物)は、あくまで手段であって目的ではない。

クリエイションは目的によってその姿形や色、質感まで変わるものだ。

つまり、これは逆を言うと

目的の大小や強弱がクリエイションの質を左右しかねないということだ。

たしかに創作は結果として創作物が生まれるものであるが、創作はその創作物を生み出すことが目的ではなく、その先に必ず得たいもの、ゴールのようなものがあると考える。目指した結果としてたまたまその形で生まれてくるのが創作物なのだ。

 

何が言いたいかというと、中途半端な気持ちでは出来上がるものも中途半端になりかねないということだ。

創作物は鏡のようなものだから、そういう未練や心配などが混じった気持ちでつくったものには必ずそういうものが出る。出てしまう。

私はそんな気持ちの中で行う創作をしたいとは思わないし、結果出来上がったものが人々の心を打つものになるとは到底思えない。

 

以下は持論だが、こと私が所属している団体では、創作それ自体を目的にしてしまったら、何か大切なものを失ってしまわないか?という気持ちがある。これは前述の創作物は結果として生まれる話にも通じるが、ただ良い質の創作物の完成を目的にしていてはきっと何か見落としてしまう。私はそう思っている。

逆に、何で良い質の創作物を生み出そうとしてきたのか、その事を考えるときっと創作の先に何を求めていたのかがわかる。創作のオリジンだ。

言葉を選ばず傲慢であることを承知で言えば、煮え切らない幹部陣にもう一度これを考えて欲しい、と思った。無論、私も含めてだ。

 

 

こういった思いが、日を経るごとに少しずつ、しかし確かに心の中で大きくなっている。

 

 

 

こんなところでこんな事を言っているのを見て、事情がわかる人の中にはもしかするとあまり気分よく思わない人もいることだろう。

そういう人に対しては申し訳ないという他ない。

それこそ私は中途半端で、大勢の前で意見をする事をすすんでしない人間で、結果としてこんなひとりの場所で気持ちを書き殴るに至ってしまっている。

 

明日、いや日付はもう回っているから今日、ミーティングがある。

私はそこで思っていることをしっかり吐き出そうと思う。

現実と理想の狭間でもがくこの気持ちを素直に吐き出すことができたなら、きっと少しはマシな人間になれるだろうと信じて。