土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

瞬間は連なり、人生を編むー『ソウルフル・ワールド』を観てー

久しく映画の鑑賞記録単発でブログなんて書いていなかった。多分『ペンギン・ハイウェイ』『夜明け告げるルーのうた』以来じゃないか?

でもこうして記録に残したくなるくらいの作品だった。何てったって、本編終わってエンドロールが流れているのを見ながら、感想のドラフトを頭の中に書き広げて、スクリーンを出てすぐトイレ籠ってメモに書き下ろしたくらいだ。

いい作品だったと思う。私にとって、今見ておくべき作品だった。

誰かに見せるためのものではないといいつつシェアするんだけど、私のためにもこれは人の目に触れるような場所で、ある程度言葉も整えて残しておきたいと思った。

『ソウルフル・ワールド』鑑賞の記録。

 

 

 

 

 

 

リメンバー・ミー』がピクサーが生から死を語る物語であるなら、『ソウルフル・ワールド』は死から生を語る物語だ。

 


こういう星のもとに生まれた、とつい口を突いて出てしまう私だが、それは卑屈さから来る言葉だと思っていた。しかし人生にこういった意味や性質を見出そうとするのは傲慢なのかもしれない。

私たちはその全貌を知ることなんて到底できないというのに、可能性の地平を、自分で定めてしまっているのだから。

幼い頃の、目新しいものに触れる時の感動は、歳を重ねるごとに遠くなってしまうものだけれど、それでも「ひとつひとつの瞬間にそれが隠れているかもしれない」と思うだけで、私達はまだまだそれに出会うことが出来る。私達でさえまだ知らない私達が、まだこの世界には隠れている。

人生の意味をもし見出そうとするのなら、それは結果論でしか見出せない。仮に人生の道中で、人生の意味を目標物として立てたなら、実に寂れた合理に佇む、単なる時間の軌跡がそこに残るだけだ。生を発った者は、皆等しく死へと向かう。時に逸脱することもあるだろうが、それぞれの道を辿りながら、皆等しく死を目指していく。

人によって違う軌跡と、色とりどりの「瞬間」の連続が、さながらモザイクアートのように、人生を形作り、色を付けていく。死した時、もし振り返ってそれを見ることができたなら、その時初めて、私達は人生の何たるかを知るのだろう。だから、生きる我々が自らが人生を語るのは、所詮「知ったか」の域を出ない。

ただそれを知ったとて、人生の総体を知ることは出来ても、人生の意味、人生が何のためのものだったのかは知ることはできないだろう。いや、一意に定める事ができないと言った方が正しいか。それは残された者の捉えようでもあり、死した者自身の決めつけでもある。一の人生が包含する百様の意味を、一つの意味へと要約することは、皮肉だが、何の意味も持ちえまい。

 

 

 


「瞬間」とは、人生を構成する最小単位でありながら、同時に可能性の塊でもある思う。

それは実に鋭利でありながら、時に包みこむ優しささえも見せる。それは人を生かしもすれば殺しもする。幸福をもたらしたかと思えば、悲劇の底にも突き落とす。人の身で、その赴く先を知る事はできないが、未知であるからこそ、私達は「瞬間」に感覚を研ぎ澄ます。時に自分の気持ちに身を任せ、時に誰かに背を押され、私達は「瞬間」に形を与え、あるいは彩り、それを連ねていく。そうして、平坦で、いや平坦という概念さえなかった無のキャンバスに、形や色彩をつけていく。この「瞬間の連なり」こそが人の生であり、その連なりの起伏が、ひとつ豊かさに違いない。

 

 

以下作品のネタバレを多分に含む。注意されたし。

 

 

 

 

 

主人公のジョーが人生を懸けていたのはジャズだった。

ジャズは瞬間を生きる音楽。針路こそ大まかに決まっているものの、その時々の奏者の心情次第で、炎のように揺らめく。時に前例やセオリーに忠実に、でも時には逸脱して、そうして紡ぎ出される音楽は、2度同じものはできないと言っていいだろう。まさしくこれはソウルフルワールドで語る「人生」であり、皮肉にもジョーは、その自由なはずの音楽に縛られてしまっている。このあたりの描写や暗喩は非常に巧い。こんな偉そうなこと言えたクチではないのだが。。。

 

ジョーは、大切なショーを前にひょんな事故から命を落としてしまう。どうしてもそのショーに出たいジョーは、どうにかして死後の世界からの帰還を試みるが……?というのが今作。

 

人生は瞬間の連なりだと書いたが、人生の終わりもまた、ひとつの瞬間である。それは予見することができる場合もあれば、音もたてずにやってくることもある。

……だから瞬間瞬間を大切にしようね、だと月並みだが、そこで終わらないのはさすがにディズニーピクサーである。

 

 

今作のキーは「決めつけないこと」にある。

縛られるな、というと少しズレる。己で己を縛るな、の方が近い。

 

ジョーは、人生に音楽しかないと決めつけた。自分と世界を繋ぐものが音楽しかないと決めつけた。

今作の旅の相棒となる、生まれ落ちたことのない魂・22番は、「私は”きらめき”を見つけられない」と決めつけた。

 

しかし二人は、異なる体での旅を通じて自分の決めつけでは感じ取れなかった世界に気付いていく。

 

中盤、ジョーの身体を借りて生を体感していく22番。

このパートで、22番の口から「ジャズってる」という造語が登場する。

初めは行き当たりばったりでやり過ごす、くらいのニュアンスで使われていたが、やがて「行き当たりばったりを楽しむ」ニュアンスに変わっていく。

(偉そうに書いておきながら鑑賞時は気づいていなかった。これ書きながらやっとこの「ジャズってる」の変質に気づいた。いやはや、この変化の筋書きもさることながら、「ジャズってる」の訳を与えた翻訳家も称賛されるべきだ。語感が絶妙。言葉の重量感とても良い。原語で観ていないのでディズニープラス入り直して観るしかないのだが、どうあれ絶妙だと思う。しかしこの作品は「ジャズ」という装置をフル稼働させていていながら嫌味がない。しかし、これだけ技巧の冴え渡る名作が劇場公開なかったのは痛いね……今回はとても良い機会になったという私感)

 

そうした心理的変化を伴いつつあった22番は、ジャズバー・「ハーフ・ノート」の前で、不規則な軌道を描いて落ちる葉っぱを見た瞬間、決めつけが自分を狭めていた事、そして自分の道に決めつけは要らないと悟る。

 

 

 

体を取り戻したジョーは、夢にまで見たショー出演の後、自分が全てだと思っていたものに満たされずにいた。望んだものを手に入れた後のむなしさの中、憧れたミュージシャン・ドロシアの話を聞き、自分の決めつけが世界を狭めていたと気づく。

 

 

 

決めつけは、楽な道でもある。自分がそれと決めたもの以外に触れないで済むから。コンフォート・ゾーンの中にいるだけで済むなら、そうしたくなるのが人のサガだ。

自分はこういう運命だから。自分はこういう人間だから。

自分との戦いと言えば聞こえは良いが、自分は自分の域を越える事はない。自分に打ち勝った自分もまた自分自身であり、それはそこまで自覚できていなかった自分の中の領域を知覚したに過ぎない。

そう口にする度に、可能性は狭まっていく。

 

例えるなら、地図アプリで最短経路だけを通るような人生……

それを否定はしないが、それでは出会えないもの、見られない景色がある。少なくともその生き方で、人生に起伏は生まれまい。

繰り返しになるが、人生の主軸なんてものは結果論だ。その思い込み一つで、一つの方向に自分を固めてしまう。人生はむしろ、それ以外の雑多なもの、忘却の彼方へ吹けば飛んでいってしまうような、そういったものが豊かにしていくと私は思う。

 

ただ、人生の揺らぎを受け入れる事は、同時に、自分を蝕み、痛めつけるあらゆるものとの接触の可能性を受け入れることにも等しい。全てはトレードオフだ。何かを得るためには何かを失う。揺らぎを受け入れる事は、安寧を保つ壁を捨てることになる。

この恐怖……心臓が縮むようなアトラクション的なものだけでなく、静かに忍び寄って脅かすような、もっとスケールの大きなものも含めた根源的な……をも受け入れた先に人生があると、今作はそう語っている。決めつけの排除、すなわちこの根源的恐怖の受容を『生まれる準備』であるとした表現がその証左だ。

さらに言えば、

 

我々は『生まれる準備』が出来ているから生まれてきている。だから人生を決めつける必要はない。人生を織りなすその瞬間瞬間を大事にして、その身を取り巻く全てを楽しんで、行き当たりばったりまでをも楽しんだなら、きっと人生は結果として豊かになるよ。

 

というのが、今作の最大のメッセージなのではなかろうか。

要は"ジャズって"生きなよ!ということである。

 

「瞬間を大切にする」ことは割と辿り着きうる答えだが、その理由づけができるのがディズニーで、その内容がディズニーをオンリーワンたらしめている。

(厳密にはディズニーピクサーなのは百も承知だが、ディズニーを冠しているし、事実ディズニーもこの文脈では同一に扱えるので、ディズニーと書く)

今作のディズニーの回答は納得感のある回答だと思う。少なくとも私は、大変に納得をしている。

 

 

人生は瞬間の連なりで、それは多様な「瞬間」を経て起伏を持ち、彩りを持つと書いた。

この起伏は時に別の人の生と交わることもある。

この連なりが誰かの連なりと交わった時、また人生はその姿を変える。新たな色?新たな起伏?それは分からない。でも、人生はそういった変化の繰り返しだと思う。

 

『縦の糸は私 横の糸はあなた』とは中島みゆきの知られた歌の詞であるが、なかなかどうして、よく言ったもので、まさしく人生は一人の起伏と、何本もの人生との交わりで編み上げられていく。

今作のメッセージは、深いところで中島みゆきの『糸』とも交わるのだ。

 

この一見して何の関係もない二つが交わる……これこそが人生の面白さであり、深みであり、何の偶然かこの世に生を受けた我々が享受できる特権に他ならない。

 

 

 

 

 

 

 

さて、長くなってきたのでそろそろ結ぼうかと思う。

 

意識バイアスもあるかと思うが、最近人の訃報に触れる機会が多い。

それでも私は、死を考えるにはまだあまりに若い。死を考えないということは、同じくらい生も当たり前のものとして考えているということでもある。生も死も、どちらも私にはまだどこか他人事だ。

訃報に接する中で、最近の私は積極的に、生死を扱う映画を観ていた。何も考えないことが、何となく死者への軽視であるように感じられたからだ。本作もその考えのもとで足を運んだ作品の一つである。

これから少しずつ自分事にして行こう。そう思っているところに、ショッキングな出来事が続いた。

 

趣味の公営競技では騎手が立て続けに、それも若くして命を落とし、私の個人的な繋がりの中には、私よりも若くしてこの世を去った人間もいた。

まだまだ未来があった人たちだった。ピリオドを打つには、あまりに早すぎたと思う。

こんな月並みの追悼がしたい訳ではないのだが、それでもそう思わずにはいられない。

 

本作の感想を書く中で、このように書いた。

人生は瞬間の連なりだと書いたが、人生の終わりもまた、ひとつの瞬間である。それは予見することができる場合もあれば、音もたてずにやってくることもある。

 

まさしくこれだった。終わりも、突然その瞬間がやってくるのだ。それを最近生きる中で思い知らされる。

突然命の終わりを迎えた人、特に若人の気持ちを考えて震えもした。やり残したこと、知らなかったこと、たくさんあったろうと思うと、胸が締め付けられる思いだ。私はこれを書いている今でなお、死は遠い出来事と感じている。きっと彼らも、同じだったに違いない。

明日は必ずやってくるものではない。

目を背けたくなる真実がそこにはしんと佇んでいる。

 

本作を見てこの感想を書いていく中で、影が光をより濃く知覚させるように、死の存在とその距離への恐怖が増していく一方で、同時に私の生への関心も強くなった。

生きている私達は、使命とまでは言わないまでも、生を享受することに無関心ではいられないと思う。

 

繰り返したように、まだ私は何も知らない身だが、こういう気持を醸成できたことはとても意味のあることだと信じる。

その機会を与えてくれた本作にはとても感謝しているし、この縁には奇跡めいたものを感じる。

だからこそ感想も残しておきたいと思えたし、結果としてこれだけの分量にもなった。

こうした作品との出会いの積み重ねもまた、私の人生を豊かにしていくものと信じているし、次なる出会いに向けた旅もまたここから始まっていく。

 

またこういう作品に出会えるのか、それとも出会えないのか。

どっちになるかは分からないけど、ひとまず”ジャズって”いくのが大事かと思う。

 

この出会いを「出会って良かった」だけで終わらせないために、私は私を生きていく。