今週も良い本を読めて、あまりに心が躍ったものだからインスタにストーリーを上げたら、中高の同級生とやりとりができた。
このブログを読んでいただいているらしく、嬉しい限り。
だからという訳ではないけれど、今週は競馬予想はお休みして、メインは読んだ本の感想。副題もその感想文のタイトル。
馬で外れたとかそんなこと言ってる場合ではないんだよ。
読まれるとやっぱりちょっと嬉しい、一人暮らし927日目の記録。
こんしゅうのわたし
今週は仕事と休みとが半々。
佐賀から帰ってすぐ仕事だったこともあり、2連休でもめちゃくちゃしっかり休んだ感覚になった。
今月は後半が大連勤、来週はほぼ全休という極端な月。体調にだけ気をつけて生き延びたいところ。
今週の自炊メニュー。
写真の順が逆で、先にサーモン漬けてから豚キムチ。
しっかり漬けたい派の私、サーモンの漬けダレが毎回余っていて、それを有効活用したいな〜という結果が豚キムチ。
豚キムチに和えるタレのレシピを見返したら、ツケダレと似ているんじゃね?ということに気づいたことからこうなった。
砂糖適当に加えたせいで、前に豚キムチを作った時に好きだった甘みがなくなっていた。もう少し改良の余地あり。
サーモンもしっかり美味しかった。
カフェはおやつで訪問。
これでランチのたまごサンドと同額なのはドーナツ高え〜というほかない。でもこのお店の雰囲気が好きだから来てしまう。場所代だからね、場所代……
この日はこのカフェで読み終えようとしていた本があった。
武雄温泉出張帰り、博多の紀伊國屋書店で買ったのが『ノルウェイの森』の2冊。
『スプートニクの恋人』に続いての村上春樹作品の読了。すっかり村上作品の虜で、もう彼の作品を読まないと落ち着かないという状態だ。紹介してくれた同期には感謝してもし切れない。これを読んでいるかは分からないけれど、先ずは感謝をしなくてはならない。
(以下にはネタバレを含む表現があるため、読まれる方は自己責任で……)
さて、今回の『ノルウェイの森』は言わずと知れた村上作品の代表格と言うべき作品。私も過去に一度、高校2年の時に仲の良かった同級生に貸してもらっていたのだが、結局読み切れずに返してしまった。
(LINEの履歴を見返したところ、かつての私は「英語の小テストが終わったらガツガツ読む」と宣っていた。「明日やろうは馬鹿野郎」とはよく言ったものだと思う。もう9年(!)も前の話)
私がこのように青春の日々の記憶を比較的鮮明に覚えているのと同じように、この物語もまた、主人公・ワタナベの青春をありありと描いている。
非常に真っすぐで ―変なことだが、真っすぐすぎて少しいびつにさえ感じるくらいに真っすぐで― 澄み切った恋愛が描かれていると感じた。
その真っすぐさは時として鮮やかに時を彩るが、時に鋭利に彼に切りかかりもする。
当然それはワタナベだけではなく、彼を取り巻く人においても同じだ。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している
作中で唯一、太字で記述されたこの文章は、テーマが死と生であることを示しているというのは間違いではないと思うが、一方で大変な無力感をもたらす一節でもあるように思う。
生と死が対極ではなく、生の中に死が内包されているー
この無境界の考えは、先週読了の『スプートニクの恋人』にもあった。結局二項対立なんて独善的で恣意的な線引きで、真に物事を分かつ境界などないのだと、『スプートニク』では語られた。
『スプートニク』では抽象的に描かれたものが、こちらの方ではよりリアルに描かれているという解釈でいいだろうと思う。(作品の出た時系列を踏まえれば、再確認というのが正しいのだろうが)
分かつことで半ば他人事にできていた死は、実は自分が今いる生の延長線上にあって、今も少しずつそこへ向かっている。回避の術はない。なぜなら我々は生きているから。生きているから、死へも向かう。
この事実を突き付けられた時に覚える感情……私はまだ、そこまで近しい人の死を経験していないが、想像を絶することであろう、ということは想像できる。想像の範疇で言葉にするなら、まず無力感、絶望感を感じるのではないかと思う。キズキがそうだったように、死は、形而下的には、己を他者と分かつ。我々は社会生物だから、繋がりなしに生きてはいけない。でも、形而下に生きているから、実体を介さない繋がりを我々は知らない。形而下にある我々にとって、知らないことはすなわち無に等しい。我々をこの世界につなぎとめるもの、他者とのつながりを断たれる……死とはそういうイベントであって、社会生物としての根源的な恐怖と、不可避のそれに対する無力感がそこにはある。
『スプートニクの恋人』において、境界が無いということは、つまるところすべては繋がっている……言うなれば「無限の可能性と可変性」と解することで社会生物である我々に対してある種の救いを提示したのに対し、『ノルウェイの森』では無境界を「切り離せないもの」「不可避であるもの」として無力感と孤独感を描いたように思う。時間的隔絶を経ても、精神的な決別を経ても、それは有意な線引きではなく、そういった形で引かれた境界は意味を成さない。
死をもってしても逃げられはしない。私達は負った傷と共に生きなければならない。他人も自分であるけれど、同時にどこまでいっても自分しかいない。その果てなき事実を目の前にしたのなら、死を選ぶこともかえって自然にすら思える。鮮やかな瞬間でさえ、この途方もない現実においては大海の一滴に過ぎない……その現実は、むしろ青春と呼ぶ日々が鮮やかであればあるほどに、強かに首を絞めにくるのかもしれない。
ともあれ、究極、我々は孤独を脱することはない。本作は傷に対する救いの提示などではなく、そこに厳として佇む孤独と無力を前提とした作品であると私は読んだ。
この作品が私にもたらしてくれたもの、それはたとえるなら海原をわたるための舟とオール、あとは少しの食べ物だ。
方程式のようにひとつの明確な解をピシャリと示してはくれないけれど、この境界なき、果てしなき人生の海原をわたるための道具はくれた。
辿り着くべき場所への地図とコンパスはくれないけれど、波に飲み込まれない術を教えてくれた。
無力と孤独を前提に描かれてはいて、その存在を我々は無視できないと描いてはいるが、我々はその大きな存在に対して無力だけれど、それをやり過ごすような術は持っていると言っているように思う。
それが気休め程度でしかなくても、まるで夜空にちりばめられた星……それは星座にもならないだろうし、ましてや北極星にはなれないだろうけれど……のように、暴力的なまでに大きな無力と孤独の中での少しの慰みになっていると感じた。
物語の終盤は、こういった点々とした小さい燈を残して幕を閉じる。
と、ここで読者的ハッピーエンドと行きたいのだが、『ノルウェイの森』はこの慰みをも否定したように思う。
強烈なことに、この作品内の時系列的終点は、小説の冒頭なのだ。
その時は救いを得られた、自分の中に救われる部分を作ったように描いておきながら、結局時間的隔絶を経ても、精神的な決別を経ても、それは有意な線引きではないのだと最後まで村上は我々に突き付ける。
あまりに残酷で、救いがない。
一見して小さな救いを提示したように見せておきながら、その実、我々はこの根源的辛苦から逃れられないと説かれる。絶望と呼んで良いだろう感覚だけが残る。
辛苦を乗り越え、新しく前に進んで新しい自分を得たと思えたとしても、ふとした刹那に、傷は、辛苦は、我々を捉えて振り向かせる。
私達は終生、それと共にあるのだ。
『ノルウェイの森』は、死がくり抜いた生の過酷さと、生の鮮やかさが明らかにする私達の無力と孤独とを突き付ける。
〜前略〜
放っておいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベストを尽くしても人は傷つくときは傷つくのです。人生とはそういうものです。
我々は大海原のボート漕ぎだ。
有限でありながら無限でもある生という大海の中で、我々はどこかへと向かう。
見渡す限りの大海原、その舳先が正しい方へ向かっているのかも判らない。
だけど、人生とはそういうものなのだ。
正しくもあり、間違ってもいる。
どこへ向かうでもなく、そういったどこかへと向かわされるし、そして傷ついていく。
このあまりに絶望的な提示は、むしろ私達の張った肩肘を緩めてくれる気さえする。
もう私達は逃げられないのだから気張っていても仕方ないよ、と。
波風に身を任せて、漂うしかないのだ、と。
我々はこの海原の上で、どこまでも無力で、どこまでも孤独なのだ。
大変優れていると感じた帯の一節。
私の読み落としがなければ、この一節は本文にはない。
それでいてこの作品を見事に射抜いた、美しい文章だと思う。
私のこの感想文で綴るような、冗長でまどろっこしい言葉ではなくて、端的で、それでいて的確な言葉がそこにはある。
何が良いって、そのまま見ても素敵なコピーだが、読了後に見返したらいっそう素敵に見えること。なかなかこういうことは出来ない。偶然の産物なのかもしれないが、偶然は然るべき土台の上で半ば必然的に起こるもの。作者の技量が光る。
かつてコピーライターを目指していた自分が少し目を覚まして、この帯の言葉を噛み締めていた。
私には言葉を射抜く勘も、感性も元々なかったのに、以前に増してなくなってしまっているのを感じるけれど、さればこそ、またたくさんの言葉に触れて、たくさんの言葉を編もうと足掻くことで、かつて目指したところに少しでも近づこうと思えた。
ともあれ、いい帯、そして何よりいい作品だった。
ぜひご一読を。
こんしゅうのけいば
今モチベーションがないので、G1以外はお休みします。
次回は宝塚記念の予定です。
こんしゅうのひとくち
5歳
ルージュアルル
手応えも様子も良いらしい。
オープンいきたいな……
4歳
レッドラグラス
いつ声がかかっても帰厩できるらしい。
北海道で躍動するラグラスが見たいね。
3歳
ルージュアリエル
木曜にゲート試験
ルージュベルベット
440キロでも細く見えない、というのは良いね。
来週変わってくれれば……みたいな稽古だったらしいけど、ほどほどに期待しましょう。
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