痔になった。
そんな水曜日の記録。
男性諸君、陣痛の痛みを想像したことはあるか?
女性各位が男性によく言う
「女もそんな楽じゃない」のいち論拠として使われるのが陣痛だと思うが、私は今まさに
「陣痛とはかくなるものであろう」という痛みと共生している。
そう、痔である。
彼(※痔、という文字があまり清潔な印象を与えない為、拙ブログの品位保持の為ここでは痔を彼と呼ぶことにする)
との出会いは2ヶ月ほど前にまで遡る。
毎日快便小僧の私は、いつものようにトイレへと向かった。下を脱いで便座に腰掛け、適度な力を腹へと込める。いつもはスムーズな登場を決める彼(※ここでいう彼はうんこであるが、上述したものと同じ理由で彼とする。さすがにうんこを彼女とは呼べない。混乱を招くのは承知しているが、読者諸賢の読解力に甘えてここでは彼とする)だが、その日はいつもと様子が違った。
「我、いざ肛門を出んとす」と胸を張らんばかりに肛門を押し広げるように出てくる。
端的に言えば主張が強いのである。
バレリーナも顔負けな肛門のしなやかさと言えど限度というものは存在する。
その限度に、この時の「彼の主張」によって到達した。
「ピリ」でも「ビリ」でもない。
名状し難い刺激を覚えた刹那、肛門はにわかに痛み出した。
"彼"だ。
私は即座に理解した。というのも彼に会うのは私にとって初めてのことではない。
逢瀬の回数こそ重ねてはいないが私は彼を知っている。彼と共に過ごした時を記憶として持っているし、当然彼がどのような存在かも知っている。
今回の共同生活もそう長いものにはなるまい、そう高を括って紙で尻を拭った。
これが彼への「ようこそ」のサインなのである。
時を戻して、現在。
再会から2ヶ月、いまだに彼は私の肛門に住んでいる。
そう回数を重ねていたわけではないが、おしなべて彼は、長くて2週ほどで我が肛門に別れを告げていた。
それがどうだ、今回はかなりのロング・バケイションである。彼は天然色ではないけれど。
某「中にチューっと注入」する薬の使用も検討していたが、なにぶん我が肛門は今まで内→外の一方通行を守ってきており、二十歳になって外→中の通行を受容できるかというとそれは字面ほど簡単な事ではなかった。
今後の彼との付き合い方を思案していたところ、事件が起きた。
ついに彼が血の涙を流したのである。
生きる事とは残酷な事である。
生きる長さの分だけ悲しみを知り、苦しみ、悩みを抱える。
人間が不老長寿を持たぬのは、生の長さの残酷さ、過酷さを知る神の優しさであると考える。
理(ことわり)を超えた生を得たとき、その身に降りかかるのは幸せではなく、抱え切れない負の重さである。
彼は今、理を超えて我が肛門に住んでいる。血の涙はまさに、彼の「生の苦しみ」に由来するものであると信じてやまない。
彼の苦しみを思うと、私も涙が止まらなかった。彼の痛みが己のもののように感じられた。
いや、この痛み、普通に自分のものでした。
本当に痛い。Wheneverうんこ, I feel 陣痛は流石にシャレにならない。痛い。
母は水分をあまり取らないからだ、と言ってきたので昨日は水分どか飲みしたら下した。
一体どうすればいいのだ。途方にくれてる。
ケツの穴にモノを入れるだけは嫌だ。
童貞の私、死ぬなら汚れを知らぬまま死にたい。
あぁ神さま、私はどうすれば良いのでしょう。
無宗教でも神にすがりたくなる時がある。
自分が死を覚悟するほど苦しい時と、大切な人がピンチの時、そして痔になった時だ。
これをここまで読んでくれた心優しいそこのあなた、ケツにモノを入れないで行える治療法を絶賛募集しています。
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