土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

宇多田ヒカル 『Good Night』考察〜アオヤマくん考察と共に〜

今回は、宇多田ヒカル『Good Night』を考察していく。(ペンギンハイウェイについてのネタバレがある。注意されたし)

 

 

はじめに

 

今回取り上げるのは、映画『ペンギン・ハイウェイ』の主題歌である、宇多田ヒカルの『Good Night』である。

当記事の性質上、映画の核心的な部分に触れる事が多々あるので、未見の方など、不都合が生じるであろう方はここにて引き返すことを強くお勧めする。

また、この記事は大変に長く、それに筆者の文章構成の稚拙さも相まって大変に読みづらいことが予想される。申し訳ない。

しかし不思議なことに、内容には一定の自信があるので、根気よく読んでいただければ幸いである。

 

『Good Night』考察

 

タイトルについて

映画のなかではあまり取り上げられなかったが、原作において非常に印象的な言葉がある。

それが

Good Night(原作内では『ぐんない』)

である。

ヤマグチさん(=「海辺のカフェ」の店主)がアオヤマくんに放った言葉で、アオヤマくんははじめ、この言葉の意味がわからなかったが、父に教えられたことで意味を理解すると、この言葉をお姉さんに使ってみせて、お姉さんを驚かせようと考えるのである。

次にお姉さんとチェスをする夜には、別れ際に「ぐんない」と英語で言ってお姉さんを驚かせるのだ。そしてお姉さんが「なにそれ!」とびっくりしたら、ぼくは「おやすみなさいという意味ですよ」と教えてあげることにしよう。

結果はお姉さんを驚かせるどころか、逆に使い方の間違いを指摘されて終わるのだが、お姉さんの「大人性」を演出するシーンとして印象的なシーンである。

宇多田ヒカルは、映画化の際に抜け落ちたこのシーンのこのフレーズをタイトルとして採用したと想像できる。この時点で作品に対する宇多田ヒカルの真摯な態度を読み取れるが、それを称賛するのはまた後ほど。

 

 

詞について(アオヤマくん考察と共に)

ここでは、『Good Night』の歌詞の全編を考察するようなことはしない。

それは、ともすると考察が「推測」に偏ってしまうことが考えられるからだ。

最も重要なことはタイトル、あるいはタイトルが連想させるフレーズに潜んでいる、という「個人的な信念」による部分もある。 

ここでは、サビの、一見すると単調な繰り返しに潜む深い味わいを掘り起こし、『ペンギン・ハイウェイ』ファンの読者諸賢とその味わいを共有するという事にゴールを置く事にしようと思う。

 

それではサビ部分の詞を見てみよう。

Goodbye
Goodbye
Goodbye
Goodbye
Goodbye
Goodbye
Goodbye
Good Night

字面だけみると、単調といえば単調である。音付きで聴いていただきたいところである。

Good Night

Good Night

 

Good bye

さて、サビの大部分を占め、タイトルにもなっている"Good bye"について考察しよう。

 

他の部分の詞と、宇多田ヒカルのテレビ番組での発言を見ればわかるが、この曲は物語より少し未来のアオヤマくんの視点から歌われている。

しかしまずは、物語の中のアオヤマくんに主眼を置くことにしたい。

物語のアオヤマくんは、最終盤のシーンでこう語っている。

「ぼくら(=アオヤマくんとお姉さん)はサヨナラをしたよ」

Goodbyeはこの『サヨナラ』すなわちお姉さんとのサヨナラだろうと推測できる。

 

サヨナラには、大別して2つ、その種類があると思う。 

 

1つは、「また会う日まで」サヨナラ。

そしてもう1つは、「もう会えない」サヨナラ

である。

 

ペンギン・ハイウェイ』の作品内で読み取れる限りでは、その後お姉さんとのどうなったのかについては描かれてはいない。

しかし、主人公たるアオヤマくんは、この「サヨナラ」が、ともすれば永遠のものになり得ることを予見していたように読める。

「海が消えればペンギンが消える。そして、それを生み出し、海からエネルギーを得るお姉さんも消えてしまう。」

彼はそう仮説を立てた。

海が消えたら、また現れる保証は無い。

つまり、お姉さんにまた会える保証も、無い。

彼は自分なりに立てた仮説を一方で正しいと信じたが、しかしまた一方で間違っていると信じた。

結果、海は消え、そして一緒にお姉さんもいなくなった。

お姉さんとの別離を経て彼は言う。

『ぼくらはサヨナラをしたよ』と。

 

ここで少し、理解の(というよりこの論の)補助線として、アオヤマくんの考え方について考察する。

アオヤマくんは、いわゆる実証主義的な立場を、知的好奇心の赴くままにとっていたように見て取れる。

何かしらの手段で証明できないものは、彼の中では理解、消化されないのである。

「好き」という言葉ひとつとっても、その存在自体は辞書にあるから知っているが、そこに記載された意味以上のもの、己が感情としての「好き」は全く理解されていない。好きという言葉と、それがどういう意味かを知っているが、それを体験したことがない、あるいは記述できないために、例えばそれがどう行った過程を経て生じるのかといった本質的な部分を欠いて認識している。

つまり彼は、主観的事象と客観的事象を完全に分別し、主観的事象(ここでは感情)を客観的事象(ここでは言葉)に置き換えられる範囲に限って、それを理解していた(理解したつもりでいた)のである。

全ての不可思議な事象を、獲得した知識の元に置いてそれをつなげて考える。彼は主観的視点を排除した正解を求めるのである。

(これが、彼に対して大半の読者、鑑賞者が持つ「子供離れしている」という印象の正体であろう。)

彼の思考の根底にあるのは、実証主義に縛られた、実証「絶対」主義であると言える。

 

 

しかし彼の実証絶対主義はお姉さんとの関係を通して崩れていく。

完全な証明が出来ないものの存在(客観的記述をし得ない、され得ないもの=主観的事象)への気づきである。

長めの引用になるが、下記のシーンで最初の気づきが描かれる。

彼女(お姉さん)の顔を観察しているうちに、なぜこの人の顔はこういうかたちにできあがったのだろう、だれが決めたのだろうという疑問がぼくの頭に浮かんだ。もちろんぼくは遺伝子が顔のかたちを決めていることを知っている。でもぼくが本当に知りたいのはそういうことではないのだった。ぼくはなぜお姉さんの顔をじっと見ているとうれしい感じがするのか。そして、ぼくが嬉しく思うお姉さんの顔がなぜ遺伝子によって何もかも完璧に作られて今そこにあるのだろう、ということがぼくは知りたかったのである。

  ぼくはそのふしぎさをノートに書こうとしたけれど、そういうふしぎさを感じたのはノートを書くようになって初めてのことだったから、うまく書くことができなかった。

ここで、記述不能なもの(あくまで物語の中でだが)に彼はじめて彼は直面する。しかし彼は、「不思議さ」と名付けられた違和感に出会ってもなお、それが記述可能であるという可能性を考えている。

そして、下に引用する「海」の中でのお姉さんとの会話で、彼はとうとう「記述可能」性の壁に当たるのである。

「ねぇ、もしこの「海」が消えて、世界が完全に修理されたら、私はどうなるんだろう」

「ぼくにはわかりません」

「……本当はわかってるんでしょ?」

「ぼくの仮説が正しければ、ペンギンたちは消えるでしょう」

「私は?」

ぼくは言葉につまってしまった。

 

このシーンで、彼の実証絶対主義は崩壊した。

客観的事実が言葉として顕現することを主観(感情)が阻んだのである。

(しかしあくまで、崩壊したのは実証「絶対」主義であって、実証主義自体が彼の思考の根底から消えたわけでは無いことに注意頂きたい)

そして、下に引用する(引用が多くて申し訳ない)海辺のカフェのシーンで、彼はひとつの結論に辿り着く。

ぼくはかつてお姉さんの寝顔を見つめながら、なぜお姉さんの顔はこういうふうにできあがったのだろうと考えたことがあった。それならば、なぜぼくはここにいるのだろう。なぜここにいるぼくだけが、ここにいるお姉さんだけを特別な人に思うのだろう。なぜお姉さんの顔や、頬杖のつき方や、光る髪や、ため息を何度も見てしまうのだろう。ぼくは太古の海で生命が生まれて、気の遠くなるような時間をかけて人類が現れ、そしてぼくが生まれたことを知っている。ぼくが男であるかららぼくの細胞の中の遺伝子がお姉さんを好きにならせるということも知っている。でもぼくは仮説を立てたいのでもないし、理論を作りたいのでもない。ぼくが知りたいのはそういったことではなかった。そういったことではなかったということだけが、ぼくに本当にわかっている唯一のことなのだ。

ここで彼は初めて、主観的事象(ここでは感情)の存在認識を、客観的なものの存在認識と並存・共存させることができたのだと考える。

どうやら世の中には記述不可能なものがあるらしい、という発見をしたのである。

(この事によって彼の中に初めて生まれた概念の一つに、「未練」があると思うのだが、このことがもたらす影響については後述する。)

 

さて、長くなってしまったが、以上のことを踏まえて"Goodbye"について考えていく。

結論から言うと、この"Goodbye"は、彼の持つ実証主義的な思考=客観的事実に基づく思考から出された言葉だと考える。

(上の方にも書いたが)

彼は、彼の仮説のもとで予見していた。

お姉さんとの別れが「海」の崩壊によって起こることを。

そしてそれが永遠のものになり得ることを。

そして現に、真に永遠のものであるかは読者たる我々には知る由もないが、お姉さんとは別れを迎えることになった。

これは彼にとって偶然ではなく、むしろ必然に起こることで、そのことは彼自身もよくわかっていただろうと思う。

実証主義的思考の下の彼には、もう永遠の別れを受容するしかなかったのである。

つまり、私の考えにおける"Goodbye"は、先に出した「サヨナラ」の大別によるところの、「もう会えない」サヨナラであると言える。

 

Good Night

「では最後のGood Nightは?」

読者諸賢におかれては、そのような疑問が付きまといはじめていることと思う。

もうしばらくお付き合い願いたい。

原作内で、『チェスをする夜』に「ぐんない(=Good Night)」言って驚かせたいという趣旨のセリフがあることは上述したとおりだ。

海辺のカフェでチェスをする、というのはアオヤマくんとお姉さんにとって日常的、少なくとも今まで繰り返されてきたことで、それはまた、次があると予見されることであることも意味する。

日常性は以下に引用する部分から読み取れる。

住宅地を抜けて道路に出て、明るく光っている「海辺のカフェ」が近づいてくると、いつもと同じ席にお姉さんの姿が見える。

 

ここで私の考えであるが、"Good Night"を、日常性のある「海辺のカフェでのチェスを終えた後の別れ際に」言いたかった、ということから「Good Night」には「またね」も含意されていると考えられはしないだろうか。

つまり、上述したサヨナラの大別によるところの、「また会う日まで」サヨナラのニュアンスを含むのではないかと考えたい、というのである。

 

 

サビの概観と考察総括

ここでひとつ伏線を回収しておく。

彼がお姉さんとの関わりの中で、「未練」の概念が生まれたのではないか、と先に述べた。

未練とは

1 執心が残って思い切れないこと。あきらめきれないこと。また、そのさま。

(デジタル大辞泉より)

と定義される。

この未練というのは、現実と、感情(希望や理想とも)とのズレによって生じるものだと私は思う。

アオヤマくんは、実証主義的な思考のみに従って生きてきたから、今まで未練など感じたことはなかったことと思う。

感情をはじめとした主観をすべて排除して客観的事実のみに立脚するある意味割り切った考え方しかできなかったと言える。

しかし、どうやら世の中には記述不可能なものがあるらしいという発見をした後は、その「記述不可能なもの」が、不可変な現実、実証された現実に逆らって並存・共存するという事が起こる。

 

「会えないことはわかっている。けれど、お姉さんが好きだから会いたい。」

 

というような、理屈では説明できない感情がアオヤマくんのなかに生まれるのである。

この、現実と理想との差が、未練を生む。

 

最初に述べたように、この曲の歌詞は「少し未来の」アオヤマくんの視点によるものである。

この物語のなかのひと夏でさえ精神的に成長したアオヤマくんである。その先も色々なこと(それが幸せな事だろうと、厳しい事だろうと)を吸収して成長することだろう。そして、成長に伴って現実を知っていくことだろう。現実と理想とのギャップはその大小はあれど、物語当初より大きくなることは想像に難くない。

しかし、お姉さんへの想いというものは、(その体験の特殊性のせいもあるかもしれないが)そう易々と断ち切れるものでも無いだろう。

「もう会えないかもしれない」現実と「それであっても、やはり会いたい」という理想との狭間で揺れ動くアオヤマくんの心は、永遠の別れを予見した"Good bye"の連続の後にひとつ、再会を含意する"Good night"を置くことによって、この上なくキレイに表現されるのである。

(そして最後、『この頃の僕を〜』というあの必涙フレーズに繋がるのである!)

ここに、このサビの詞の巧さ・深さが隠されていると共に、宇多田ヒカルの、『ペンギン・ハイウェイ』という作品へのリスペクトが表れていると私は考える。

 

最後に

いかがだっただろうか。

一つ記しておきたいのは、共感していただけても、していただけなくても、これはあくまで一つの考察に過ぎない、ということである。

作品は世に出たその日から、受け手それぞれによって、多彩で自由な解釈により理解され、それぞれの世界を持つ。そしてそれは時に創造主たる作者の予想さえ超える。

しかしこれはルール違反でもなんでも無く、むしろそれこそが作品を楽しむことの醍醐味である事は疑いようが無い。 

自論の正当化と見られそうだが、端的に言いたい事を書けば、この私の解釈が絶対では無く、各人の中に各々の答えがあって良い、ということである。

こんな真面目な記事を書くこともそうないのでひとつ、ついでに書いておきたい。

テレビで、ラジオで、街角で、はたまた映画館やCDショップで、もし心を揺さぶられるような作品に出会った時は、是非とも自分の手でその作品を掘り下げ、思考の翼をどこまでも広げて解釈し、理解しようとしてみること。

これはとても素敵なことで、必ずやあなたの世界を豊かにしてくれることと思う。

この考察が、洋々たる作品考察の海へと漕ぎ出す契機になれば、などと少し傲慢な希望を添えてここにこの考察を閉じる。