土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

有馬記念2025〜新しい1ページ〜

今年もこの時期がやってきました。

有馬記念2025。

 

個人の思想・感想が大いに含まれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

有馬記念(GⅠ)(第70回グランプリ)
 
本競走は、1956年に創設された『中山グランプリ』を前身とする重賞競走。当時の日本中央競馬会理事長であった有馬頼寧氏が、中山競馬場新スタンド竣工を機に「東京優駿日本ダービー)に匹敵する大レースを」と提案し、創設された。しかし、第1回の実施から間もない翌1957年1月9日に有馬氏が急逝したため、同氏の功績を称えて『有馬記念』と改称された。以来、年末の風物詩として親しまれ、幾多の名馬が名勝負を繰り広げてきた。 
なお、本競走は『宝塚記念』と同様、ファン投票によって出走馬が選定される。

JRA公式ホームページ・特別レース名解説 より引用)

 

 

日本競馬の規則上、収得賞金は絶対正義であり、稼いだ収得賞金が、出走できるレースの格に繋がることに異論を挟む余地は当然ない。強い馬に席が、枠があり、弱い馬にはない。残酷なまでの優勝劣敗の理は、競馬法の趣旨を踏まえても自然であると言わざるを得ない。

(※収得賞金:競走で1着※重賞競走では2着までになった際、競走に応じてその馬に対して加算される賞金のこと。一つの競走にフルゲートよりも多く馬が登録された場合、基本的にこの収得賞金を参照して序列をつけて上から順に出走が可能になる)

 

その中にあって、競馬は、その競馬法によって公認された賭けを伴う興行であり、ファンの存在があってこそのものであることを鑑みれば、前段の考えを承知した上で、ファンに望まれた馬、愛された馬に大舞台の席があっても良いのではないか。その考えに端を発しているのがこのグランプリ、ファン選抜競走の意義であると思う。

さればこそ、「規則上許される」という幼いロジックで、この競走の本来的な意義を損なうような駆け引きがなされることが望まれたものではないというのもまた自明なのではないか、と私は考える。

今年の有馬記念を巡って、こうした精神的な部分……ホースマンシップともいえる部分にもとる行為があったということは、賛否両論があることを承知しつつ、一ファンとしては実に残念だった。

 

さて、昨年の有馬記念は日本総大将と称されたドウデュースが枠番決定後に回避、そのまま引退というバッドニュースがあった週中。

レースこそ熱戦とはなったが、その不在はファンに「もしドウデュースがいれば」という幻影を追わせたのは間違いない。

 

ドウデュースはあのレースで有終の美を飾れたのか否か。レガレイラを下せたのか、あるいは敗れたのか。ファンそれぞれが持っていることだろう。

 

 

 

人と人の繋がり、受け継がれる血に刻まれたドラマ、それらが競馬の最たる美しさのひとつであると思う一方で、優勝劣敗……残酷なまでの勝負の世界にあるが故のシビアさもまた競馬の良さの一つだろう。

 

重ねたその敗戦の上に、スーパースターの絶対条件である「常勝の型」を築いたレガレイラ。

圧倒的な力に、走りが追いついてきた感さえあり、勢いは十分、人気投票も1位と名実共に日本一へ歩みを進める中にあって鞍上は戸崎からルメールに戻った。

戸崎の「ダノンデサイルのドバイでの走りが感動的だった」というコメントは偽らざる本音だろう。悩ましい2択であったことには違いなかろうが、戸崎はダノンデサイルを選んだ。

面白いところで、ここに空いていたのがルメールだった。末脚に目が行くあまり、レガレイラの3歳キャリアを潰したと言ってもいいルメールの当時のエスコートだった訳だが、ここでまたルメールが戻って来れるように事が運ぶのだから、競馬というのは面白い。

 

ルメールという騎手は、日本の競馬文化に理解こそあれ「日本人騎手」ではない。

これは人種的にどうこうと言うわけでは勿論ない。この類別とはつまるところ精神性についての類別に他ならない。

基本的に義理や人情で乗り馬を選ぶことは無い。あるとしても「次のいい乗鞍のための恩売り」だろうと思えるようなものも多いそれは彼の技術、プロ意識、仕事人としてのプライドがあってこそなのは確かだ。が、時にそれは多少ドライに映ることもある。だがこのビジネスとしてのジョッキーとでも言うべき考え方は他国の主流思想であるように思う。勝つための下準備、勝つための騎乗。国際交流が増え、国際競馬の中での地位も出来てきた今の日本にあっても、それは徐々に、しかし確かに、主流の考えとなりつつある。

 

 

情で飯は食えない。時に非情に、現実的に。ただ、勝利を希求しなければならない。

 

この考え方の浸透が、冒頭で述べた一連の騒動に繋がると思う。

ある意味これは、現代競馬が過渡期にあるからこそ表れた歪みのようなもので、我々はそんな変化を見届けているのではないか。そんな心地がしてくる。

 

 

ともあれ、陣営は、勝たなければならない。勝たなければならないのだ。

個人馬主が、人と人の絆をもって戦い、馬が紡ぐドラマを味わい、夢を見る時代の終わりを告げなければならないのだ。

経済力にものを言わせたクラブ馬主が良馬を半ば独占し、最新鋭の訓練設備で鍛え上げ、腕利きの外国人騎手を抱えて、純粋な力で勝利を総なめにしていく。その流れが正道たることを、今この勝利をもって、知らしめなければならない。

 

私は寂しさを覚える。

血統図に刻まれた名前に人馬を思い起こし、全てはこのために紡がれたドラマだったのだと、仔細を言葉にし得ないあの壮大さを前にした感動は、現代においてもはや夢物語でしかないのだと言われている気がして。

 

同時に、信じている。

示されたこの寂しい現実が、有馬記念の存在意義をかえって確かなものにするということを。

 

 

 

奇しくもすぐ外には、人と人の繋がりを大事にした往年の名オーナー故・松本好雄の遺した最後のG1馬。

その背には日本競馬の歴史そのものと言っていい武豊

管理する石橋守師との繋がりも含めて、言葉を選ばずに言えば「これまでの日本競馬」が、そこにいる。

 

前を行くメイショウタバルを差し切って、先頭で駆け抜ける瞬間、日本競馬は静かに新しい1ページを迎えるのではないかと私は思う。

 

この勝利は贖罪になんてならない。

ファン投票1位だから勝ててよかったなんて、そんな言葉は許されない。歯の浮くような感謝はいらない。今回の事例に赦しは存在しえないとすら思う。日本のホースマンが積み上げたものに対するディスリスペクトそのものなのだから。

今回に限ったものではない。これまでの彼の行いは、その積み重ねは、決して称賛のみを集めるものではなかった。

修羅の道を進んでいくのだ。

シビアなまでに勝利を見据えなくてはいけない。この陣営が日本一の馬を、世界一の馬を管理しているのだというある種の皮肉が、日本競馬をまた一つ前へと進めていき、彼はその道にあってのみ、受容されると考える。

 

もはや彼には勝利以外ない。

競馬は残酷なまでに「結果」なのだという事を、これが現代日本競馬なのだと、示すしかない。

 

 

 

 

もし昨年の有馬記念にドウデュースが走れていたら、きっと勝てていたと思う。

でも走れなかった。

藤田晋が個人としてスケールが大きいのは承知しつつも、人と人の繋がり、ダービーから続いた馬と馬の……イクイノックスとドウデュースのドラマがあって、その最高の結末への道筋は確かだったように思われたが、それは現実のものにならなかった。

誰も予想だにしなかった展開だったが、それが現実になってしまった。ドウデュースの最終章は、霧と散ってしまった。

今思えば……勘ぐり過ぎだし夢を見過ぎた、イカれた考えかもしれないが、もしかしたらこれも、競馬の歴史の大きな流れの中である種必然にたどり着いた結末なのではないかとすら思ってしまう。私は去年はドウデュースだと信じて疑わなかったからこそだ。

時代は、ドライでシビアなビジネスライクな競馬へと舵を切っていっているのかもしれない。

 

 

 

 

でもまた人情味溢れる競馬が見たい。

泥臭い競馬が見たい。ドラマに流れる涙が見たい。

洗練されたスピードスポーツへ至るも一つの良さだが、それだけではなく、結果へ至る道筋にこそ、心を動かされたい。

それが叶うかどうかは分からない。もしかしたらもうそんな日は来ないのかもしれない。そういった精神性は、廃されていく定めにあるのかもしれない。悲しいけれど、それが現状だろうとも分かっている。

 

 

ただ、それでもまだ競馬は終わらない。

来年、再来年、きっとその先も、競馬はある。

いつかまた私の好きな競馬が見られる日を夢見て、私はまたページをめくる。

今年はもちろん、来年も再来年も。きっとなんだかんだ言いながら。

私は私の好きな競馬を追って、そしてまだ見ぬ競馬の好きなところを探して、競馬を眺めていくのだろう。

 

 

文が散らかってしまったのでそろそろ筆を置こう。

ひとまず出走全人馬が無事にゲートを出て、ゴールを駆け抜ける事。そして願わくば、熱いレースが繰り広げられることを願って。

 

 

 

大好きな日本競馬の歴史へのリスペクトと、郷愁と共に。

 

 

 

有馬記念2025

 

◎レガレイラ