今年も物語は紡がれる。
東京優駿2025。
前段として……
この1年、私は苦しみの中にあった。
自覚できない類の苦しみだった。
霧の中に在ったとでも言うべきか、私としては常に前を……進むべきと思っていた方を向いているつもりだったのに、気が付いたらどこかで方向を誤っていて、その霧が晴れた時、私が立っているのは、私が立っていたかった場所ではない所だった。振り返っても何もない。ここに来るまでに何か残っているでもないし、何も残せてもいない。そこにただ在るのは、中身のない空虚な時間の隔たりだけで、文字通り空っぽのそれからは、何一つとして得るものはない。ただ、飲み干され捨てられたペットボトルのように、空っぽで軽い日々の抜殻が、果てなく散らばって横たわっているのだ。
ここへ向かう道中で、間違いに気づくことも、今にして思えばできたはずだった。手掛かりはそこら中にあった。でも、見えないふりをしていた。私が進んでいるこの道が、間違っていると信じたくなかった。誤りを認める強さを私は持ち合わせていなくて、考えを曲げられない私の弱さが私をそこへ向かわせた。
そしてつい最近。
その苦しみの存在と、知らぬ間に自分の心が負っていた傷に気づいた時、苦しみの殻は割れて、その奥にあった虚しさのようなものが大挙して押し寄せてきた。蓄積した疲労のようなものが、一瞬で私を支配した。私の中に燃え盛っていた公営競技への情熱は、蓋を被せられた蝋燭の灯がごとく萎んだ。そして私は、すごろくが如く、いつだったか歩みを始めた所に戻ってきた心地がする。
東京優駿は、私の原点だ。
競馬に初めて触れたのはそこから更に遡るが、私が競馬に情熱と呼べるものを抱いたのは、学生時代のバイト先で、東京優駿というレースについて、そのドラマについてを教わった時だった。コペルニクス的転回。全てがひっくり返った。パチンコやスロット、丁半博打をはじめとした、利を得るべくして行われるギャンブルとは、根底から違うのだと理解した。そこに流れる物語は、人を救える。束の間の快楽を得るためのものではない。あくまでギャンブルはその一角を切り取ったものでしかなく、その本質は、映画を観たり小説を読んだりすることと、そう大差ない所にあると直感した。
私が今自分の言葉で語れるのはここまで。
私はまだ、私を救ってくれるドラマの目撃者になれていないし、あるいはそれを感じ取る感性を磨けていないから。
私は公営競技の賭博の面を当然否定しないが、この物語性こそが公営競技を真に楽しむために必要な手がかりだと思っている。これを核に、実体としての公営競技……施設であったり競技それ自体であったりへの理解を深めようとしてきたし、実際その理解は一定の深さを持っていると自負している。
ただ私は、その本懐を忘れて、いつしかただお金を目指して公営競技に向き合ってしまっていた。これは必ずしも間違ってはいないし否定されるべきものではないのだけれど、私の向き合い方はお金の使い方にしても度が過ぎていたと言わざるを得ないし、公営競技それ自体への理解を深めるという第一の目標を差し置いたものだった。私はここに、深い後悔と反省を持つ。
たかだか自分の心を制御できなかっただけの事で大袈裟だと思われる人も多かろうと思う。私ですらそう思う。何を自分に酔っているのだ、と。博打狂いなど世にごまんといて、お前もその1人だったというだけのことだ、と。
それでも私は、そういう射倖的な所とは心で折り合いをつけて生きていきたいし、公営競技を真に理解することを目標にして公営競技と接していきたいとまだ思っている。
今の私には、こういう吐露が、愚かさや弱さを曝け出すステップが、再び歩みを始める上での足掛かりが、そして強い決意とその痕跡としてのこの文章が必要だった。島根鳥取の旅行記でも吐き出したことではあるが、私の原点でもあるこのレースについて記す前に、一つ戒めとしてこの前書きを刻んでおくことにする。
長い前置きになった。
今年は少し時間が足りなくて、例年に比べても文章に納得は行っていないけれど、それでもこうして残しておくことが大事だと信じている。
このレースと向き合った1週間が、そしてこのレースが、私にとっても、拙稿の物好きな読者にとっても、何か心の足しになることを願って……
今年も、私がダービーに見たい物語を残すことにする。
○
「夢舞台」という言葉がある。
何にも代え難く特別で、ともすればその生涯をかけて、目指す舞台。
すべてのホースマンの目標であり、馬にとってはその馬生においてただの一度のみ、挑戦を許される舞台。世代トップクラスに名を連ねる18頭の優駿が、栄冠をめぐり争う。
このレースはただのレースではない。
特別な想いを持った人馬が、勝つべくして勝つレース。時に計算された路を辿って。そして時に、導かれるようにして。
いずれにも共通しているのは、ダービーへの強い気持ち。
よく耳にする「普段通り」ではダメなのだ。殊、このレースにおいては。
このレースでの勝利を、このタイトルを手に入れる事を、このレースへの並々ならぬ想いを、欲求を、騎手や調教師、厩務員、攻め役……馬を取り巻く全ての人々が、そしてその馬自身もきっと、持っていなくてはダメなのだ。
ダービーは最も運のある馬が勝つ−
言われ尽くした格言だが、この運を掴むためには、どんな小さくともそれを掴もうとする強い気持ちが要る。チャンスを掴めるのはいつの日も、それを掴もうとする者だけだ。
「新馬から乗ってきた馬でダービーに挑戦できるのは楽しみ」
そう語る鞍上は、今回がダービー10回目の挑戦。初挑戦から、実に25年の月日を経ている。その間にG1は4勝、名手としての地位を固めているが、その道は順風満帆とは行かなかった。
菊花賞V後、自身の怪我でのちに時代を作った馬の主戦から外れることを余儀なくされた。牝馬クラシックでは期待馬の背に主戦として跨るもVを逸し、乗り替わり。その後G1を勝たれもした。
「いろいろと経験をしてきたり、乗っていないときも参加している騎手の様子を見ていたり、だんだんと重みを感じ取れてきていますし、(ダービー初騎乗の)当時とは違う気持ちで臨めると思います」
覇道を常に歩んできた訳ではない。そんなキャリアだからこそ、見えてくるものがある。
超えるべき壁は、「兄弟」そして「過去」。
時代を作った馬……かつて自分が主戦だった、そして主戦であれたはずの馬の、その息子。そしてそこに跨る、血の通った弟。
父馬の悔しさ。ダービーで1番人気に推されるも、主戦の騎乗停止による乗り替わり。高ぶる気性が災いし、力を出し切れずに4着に敗れたあの日。父馬の兄の子も名を連ねるこのダービーで、世代を超えて、あの日の忘れ物を取りに行く。
超えるべき壁、そしてそこを超えていく力に、一切の不足はない。
積み重ねた悔しさは、今日の栄光へ。
25年……淡々と、積み重ねてきた日々は報われるのだと、そのリードで、その走りで、見せてほしい。転換点にいるであろう今の私は、それを見たいと心から望んでいる。
東京優駿2025
◎ファンダム
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