今この導入を書いているのは、旅行を終えた日の翌日。5/26の朝になる。
散歩しながらパンをかじり、ボトルコーヒーで流し込む。
今日の朝は少し肌寒いくらいで、松江の朝晩に感じたものと似ている。天気もちょうど曇っていて、違うのは場所と騒がしさくらい。
こういった具合に、日々の暮らしのふとした瞬間に思い出してしまうような、そういう素敵な旅だった。
ひとり暮らしのふたり旅、鳥取・島根の旅のあしあと。
まずはこの旅行記を連ねるにあたり、これを目にしてくれているか否かはまた別に、
旅の大半を共にしてくれた親友氏にこれ以上ない感謝を……
また一緒に旅ができる機会があることを切に願う。
初日(岡山~鳥取~島根)

東寺の五重塔が車窓を左へ流れていくのを見送る時はいつも、地続きのはずの世界のその外へ行くような、不思議な心地がする。私が自分の脚で、その空気を吸い込みそして吐きながら通ってきた道の、その西端は京都なのだ。自転車乗り的ノスタルジーとでも呼ぼうか。ぜえぜえと息を上げながらペダルを踏んだ過去に思いを馳せながら、私を乗せた新幹線……ひかり531号は淡々と西へと進んでいく。


8:40 岡山
この記事以来の中国地方。前回降り立った時は高松へと渡る乗り継ぎだったので、改札をくぐったのは初めて。空が広い。ここで今回の旅の伴侶でもある、拙ブログ頻出、旅行の度にほぼメインコンテンツとすら化している親友氏と落ち合うことになっている。いつもありがとうございます。
このブログのこの偏屈な文章越しにも察して頂けるだろうが、私の交友関係はものすごく狭い。趣味もひとりでできる趣味ばかりで、精々職場で新しい人と出会うくらいしか人間関係を広げない。
氏は対照的に大変多岐にわたる(私の感想だが)興味関心があって、実にコミュニケーションが上手い。本人の不断の積み重ねに天性のものが加わったのかな、誰とでもすぐ打ち解けるさまは見ていて感動すら覚える。そういう類の「誰とでも友達系」の人間は得てして私は好まないし、実際最初は今ほど仲良くもしていなかったが、気がつけば……である。 氏は趣味も多岐にわたることは書いたが、音楽や美術といったアートの分野から、本や小説、ドラマといったエンタメももちろん、社会の情勢や生活の知恵に至るまで、実に網羅している知識が広い。まさしく文字通り「博識」である。知識はその扱い方、出力の仕方次第でいとも簡単に用をなさなくなるが、氏の真髄はそれらをベースにしたコミュニケーションスキルであると思っている。この文脈で言えば、出力が大変うまい。
私はコミュニケーションを「スキル」に類することに大変な寂しさを覚える人間なので、あまりそういう語り方をしたくはないのだが、氏の話はスッと聞けるし、私には完全に欠落している視点からの話が出てきて面白い。かと思えば翌日には忘れているようなくだらない話もできて、人たらしとはこういう人のことを言うのだろうと感心する。尊敬できるところはどんな人にもあると心では思っているが、この人は他の人よりもずっと、尊敬できる部分がたくさんある。
私も努力して少しでも氏に近づきたいと常々思っているので、私は新職場に行って初見の方と相まみえる時にいつもイタコが如く氏をわが心中におろし、人と接する。するとこれがまた不思議なことに私も人と打ち解けることができるのだ。
さておき、私がそのように心中に氏をおろしていることは本人にも言ったことがあって、「やめろ」とは言われていない認識でいる。そろそろ職場も新しくなりそうなころあいなので、また氏をおろすことになるだろう。そろそろ使用料取られても文句は言えまい。請求書は会社までお願いします。
「氏について」になってしまったがご容赦を。
10:45用瀬PA
普通にあっという間に2時間経っててウケ。
PAには何もなかった。本当に建造物これだけ。この先に道の駅があったのを知らなかった。用瀬は自動販売機だけめちゃくちゃハイテクで、みたことないコード決済読み取り機がついていた。訳が分からん……未来から一部分だけ切り取ってきて隠したかのような、そういういびつさ。思い返しても既にここから面白かったな。
ちなみに私は圧倒的ペーパードライバーなので今回の運転は全て氏に託しています。千葉で練習はしましたが、全く身になっていませんでした。本当に情けないとは思っていますので、私が次なる転勤先で運転を要する地に赴いた暁には、イニD顔負けのドライビングテクを見せたいと思っています。運転できるのってかっこいいよ。
鳥取着。洋食堂コロンバにて昼食。写真はハンバーグ定食。
土鍋で煮込んである。大変おいしい。これで1000円しない。昼定はサラダがつく。謎のドレッシングが渡されるがこれもなかなかおいしい。給仕さん(という呼び方が正しいのか分からないが)が大変ハリーポッターだった。共感は得られなかったが……
さて、今回の旅のメインの一つ。鳥取と言えば!な砂の美術館。毎年の会期ごとにテーマが変わっていき、今回は初の日本。万博もあるし、ということらしい。日本をテーマに作品が作られるのは初というこのタイミングで来られたのはたいへんラッキーなこと。ありがたいね。
作品は撮影可、非営利であればブログ掲載もOKとのことで載せてしまう。
順路的にこれが一番最初に来るのだが、一番インパクトがあった。ヤマタノオロチとスサノオノミコトの戦い。実に荘厳で迫力がある。蛇の頭一つ一つに厚みと重みを感じるし、スサノオノミコトの眼光にはひるんでしまうような迫力がある。
砂の美術館の作品は会期が終わると壊され、その砂でまた次の作品が制作されるそうなのだが、確定した崩壊から来る花火や季節の移ろいとは違った儚さ……今生、今この期間にしか存在しない奇跡を孕んだ儚さと、この力強さとのギャップが私には実に新しい感覚だったし、このような芸術があるのかと驚いた。過去の展示の写真を見るとどうも屋外展示が主だった頃もあったようで、その頃はもっと無常性とでも言うのか、本当にその時しか見られない作品の表情などもあったのだろうなと思う。
鳥取砂丘の砂は水を含むと固くなる性質があるそうで、その性質も相まってできたという意味でも奇跡的な芸術である。実に面白かった。
他の作品すべてに言えることだと思うが、どうやらブロックから掘り出していく形式で彫刻されているよう。部品ごとに作って繋いで、という形でもそれなりにはなるのだろうが、その繊細な作業が、その結果としての継ぎ目のない滑らかな可視面が、私達の心に深い衝撃を与える。
産業革命期、変化を見つめる男女。その表情は仔細まではうかがい知れないようになっているが、それがまた受け手たる我々に解釈の余地、想像の余白を残してくれていて、観ていて楽しい。
この他に、あまりにも衝撃的過ぎ、そして壮大な作品過ぎて写真に収めていないのだが、戦後期から高度成長までを表現した作品が終盤に出てくる。これがまた強烈でいい作品。写真に収めたところでこの衝撃は持って帰れないと思って撮らなかったが、撮っておけばよかったかなと今になって後悔。まだまだ会期はありますので、気になる方はぜひご覧になってください。

2階のミュージアムショップからは俯瞰で作品を楽しむこともできる。

少し足を延ばすと砂丘に行ける。
有名な「馬の背」までは3キロほどあり、脚元が悪いのも相まってかなり時間がかかるとのことでこのあたりでリタイア。砂の美術館で言っていた通り、確かに水気を含んだ部分は固くて歩きやすかった。
馬の背までは行けずとも、実に原生的というか、もう細胞のかなたで色あせて我々が読み返せない記憶に、きっとこんな景色もあったのだろうと思わせる壮大さ、遠大さ。
先人の存在を足跡……足跡と呼ぶにはそれはあまりにただの窪みになってしまっている……に感じるけれど、風が、時間が、その鮮やかさを奪い去ってしまって、もうそれは形を失ったただの窪みになっている。どれくらいの時間が経ったのかは分からない。途方もない時間かもしれないし、もしかしたら案外すぐそうなるのかもしれない。こういう時間の感覚にしても、遠近感にしても、全てが漠然としている。
「近くて遠い」という言い回しが私は好きなのだが、砂丘で行く先に広がる景色はまさしくそんな感じで、見えてはいて、すぐそこに在るように見える、いや実際そこに在るのだろうけれど、進んでも進んでもたどり着けないような……そんな漠然とした広さ、そう、漠然とした。そうとしか言いようのないような、そんな景色がそこに広がっていた。
私が残すこのブログも、言うなればその砂丘の「窪み」になれたならば良いなと思う。刻しても時の流れに溶けていく。でも、その溶けていく過程で私が砂丘のそれに思いを馳せたように、私のこのブログも、読んでくれている誰かにとってそういうきっかけのようなものになれたらいいなと夢想する。さらに言えば、地球にちいさく刻まれる私という存在が、誰かにとっての「窪み」になればいいな、とも。
いずれ消えて埋もれていくさだめにある命が、変えようのないその流れに、多少の抵抗とばかりに もがくところに私は人生の楽しみと輝きを見出すが、私が窪みに感動を覚えそこから思索を巡らせたのも、きっとそれを感じたからだと思う。
残念なことに、もうその感動は徐々にその鮮度ときらめきを失っていって、一夜を経た今は、僅かに残されたその余韻から当時の私の感覚を察することしか許されない。ただ正しいのは、あの瞬間感じた自分の小ささと世界の大きさは、言葉を紡ぐ原動力として身体に、心に、沁み込んだということ。そして私がどうありたいのか、考える上での取っ掛かりになったということだ。
足跡がごとく、この正しさも、理解も、時の前に溶けて行ってしまうのかもしれない。それでもまた何かの拍子に刻み込み、そしてまた消えてはまた刻み……その繰り返しの果てに、我々は生きていくのだと思う。生のもとに生きていくことと砂丘の足跡は、もしかすると似ているのかもしれないと感じた。
滞在時間はごく短かったけれど、そんなことも考えながら、実に濃密な体験ができた。
とはいえそんなまじめに考えてばかりでもなくて、何だったか忘れたけど、ここから車へ向かいながらそれはそれは面白いやりとりをしていた。風に流れる砂丘の足跡みたいに、「笑った記憶」だけが漠然と残っている。なんだったっけな……こればかりは具体性を持たせたまま覚えていたかったな。私達の旅の記憶はいつもこうだ。あたたかな余韻だけが不思議と心に残っている。
人生もきっと、こういう足跡と足跡だった窪みの連なりなのかもしれない。その『窪み』を巡って交わす言葉が、また新しい跡になっていって……その積み重ねが生きることに楽しみをもたらしてくれる、そんな気がしている。


鳴り砂があると聞いて無理言って寄ってもらったが、特に鳴らなかった。しょんぼり。
悲しみを込めて「ナリスナ・ビーチ」と名付けられた。
青山剛昌ふるさと館へ。
よく考えたら一人の人間のふるさとってだけでここまでなるの凄い。私も人並みにコナンを見るので、とても楽しみにしていた。
私は自動車にはまったく興味が無く専ら自転車を愛好しているので、教えてもらうまでこの車がビートルというとは知らなかった。まるっとしたフォルムがかわいい。この笑顔も納得。
一角にいたコウメイ。故事成語大喜利botかと思ったけれど、原作観て認識を改めました。すみません警部。諸葛亮孔明が伏龍と呼ばれていたことから諸伏という名字があてがわれているのは、安直ではあるけれどしっくりくる。諸葛亮絡みの造形って必ずちょろひげあるよね。常にクールだけれど、気持ちが入るところが垣間見える瞬間は燃える。いいキャラです。私もそうなりたい。アホすぎて無理だけど。今度ちゃんと孫子を読み直そうと思います。
他にも色々「コナン通り」とか歩いて、銅像を見たりもしたんだけれど、全てに誰か映っていてそれ単体の写真を全く撮っていなかったことに気付いた。個人的にはバス停で麻酔打たれてうつむく小五郎が最高に面白かった。

めっちゃ哀ちゃんグッズを買ってしまった。
もう2年前にもなるが、私は灰原哀に脳を焼かれている。強烈に。それなりにいいものばかり買えたので、帰宅して開封するのが楽しみ。
思い出しだけど、やっぱり今年の映画(残影)での「ランねーちゃんに気持ち寄せるコナンにため息つく灰原」みたいなカットがちょこちょこ入ってくる、あれが大変気に食わない。そういう媚びは要らないんだ。程よく添えられているコナンと哀ちゃんが見たいんだよな。ああいう媚びをされると大変冷める。もうちょいその辺の機微を分かってくださるクリエイターさんの登場が待たれるところだと、個人的には思っている。

車窓の奥にある山は大山という。
鳥取から島根に至る時、「ずっと大山がついてくる」とは親友氏の言葉。氏はそんな上手いこと言ったろうみたいなつもりはないだろうし、もしかしたら他の受け売りかもしれないが、何にせよ私的にはいい表現で気に入っている。上手いこと言おうとした時の「溜め」ではなかったし。
氏は言葉のチョイスが大変私好みで、いつも刺激をもらっている。見えている世界もきっと私とは違うものなのだろうなと思う。私はその世界に憧れを抱くし、その目と感性と言葉で生きる世界は、きっと私のそれよりもずっと鮮やかで、発見と感動とで溢れているのだろうと思う。隣の芝は青く、氏の言葉はまばゆい。芝との違いは、きっとそれを我が物としたとしてもそのまばゆさは損なわれないと、そう言い切れるということだ。
ドーミーイン系列御宿野乃 だんだんの湯に宿泊。私としたことが、表の写真を全く撮っていなかった。不覚。野乃は裸足で歩けるのがいい。お風呂もよかったです。温泉って本当に温もりが持続するから凄い。
2日目(松江~出雲~雲南~倉敷)


朝散歩with雨。前の晩に飲んだところとその周辺……ここのマスターは陽気な人だった。

朝ごはん。いちごがあったのは初めてかも。
割子蕎麦があるのはいかにも島根で良い。めんつゆ少ないし勿体ない……と思って、一杯目の残りを二杯目に流したのだが、実はこれがマジの食べ方だった。素質あった????日本海側だからなのかホタルイカの沖漬けもあった。大変満足。
宍道湖。
夜景がきれいだったらしいが、飲み終わりすっかりそれを忘れていた。そもそもこの晩はめちゃくちゃ寒かったからね。
湖がある生活、いいなぁ。島根は地価もまだ安いらしいし、空気感も好きだった。
これまで訪れた地だと、高松、いわきに並ぶくらいに好きな土地かも。まだいわきの方が少し好きが勝るかな。言葉とかで。
映画とかの娯楽にはちょっと距離がありそうだし、ミュージカルなんていわずもがなという感があるけれど、空気は好き。湖をぐるりと自転車で回れそうなのも気に入っている。自転車と共に老いて死ねるところを終の棲家にしたいな。
宍道湖に別れを告げ、雲立ち込め雨煙る山々を望みながら向かったのは……
出雲大社。伊勢神宮におわす天照大神は目に見える世界をつかさどる神ならば、この出雲大社におわす大国主大神は目に見えない世界をつかさどる神で、今はひろく「縁」の神様として慕われている。
伊勢神宮も中々だったが、参拝した日の天気(6ミリ近い雨が降っていた)もあってか、荘厳さというのはこちらの方が肌身に感じた。

浄の池。
おそらく菖蒲が生い茂っているのだが、私はあまり植物には明るくなく……
雨の中であっても、というよりむしろ雨だからこその顔が見られた気がして、かなり満足している。
神楽殿。
本殿は伊勢だと撮影禁止だった気がしたんだが、出雲には見当たらず。でも一応アップは控えておく。
太いしめ縄が厳か。参拝の後に御朱印を頂き、そしておみくじをひいた。
至誠と実行を大切にしなさい、どんなに知識をため込んだところで、何もしなければそれは用をなさないよ、みたいなことが書いてあった。確かに私は考え過ぎて結果何もせず……みたいなことが多いので、これからはひとまず一年、強い意志で行動を重ねていきたいなと思う。当然、真摯に。
縁の神様、というところでなのだが、最近は人との縁に感謝する機会が多い。この旅行を実行に移させてくれた親友氏もそうだし、今神奈川にいる同期も、今年の頭に久々に会った中高の同期も、仕事の上司や後輩も。良いことも悪いこともあったけれど、全てが私をつくっている。今こうして文章を打っている中でも、そうした人々の顔が去来する。こうして平和に何にもならないであろう日記を電子の海に書き捨てていられるのも、出会った人々、本、経験、何にしても、私が見聞きして触れてきた、関わってきた全てに感謝をせずにはいられない。

昼食は出雲大社近くの荒木屋。有名らしい。親友氏が見つけてくれた。
書きながら改めて思っているが、私はこの旅行で何をしているのか?ほぼ座っているだけです。ごめんなさい……ガキじゃないんだからね……気の回る人間にならにゃならんよ。
割子蕎麦とあご野焼。
検索候補には出てこないが、「わりこ」ではなく「わり”ご”」と読む様子。店員さんの発音はずっとそのような形だった。
薬味と共につゆを注ぎ、一杯ずつ頂いていく。残ったつゆは下の段のそばにかけていく。また薬味も足して……といった感じ。こしもほどほどにある蕎麦で大変おいしい。もみじおろしに恐らく貝っぽい……思い返してみるとチャンジャみたいな風味がしたので、どうも貝ひものようなものを使っていそうな気がするが、そんなもみじおろしと、ネギ、そして海苔で美味しくいただく。蕎麦と言えばわさび、という個人的なイメージがあったのだが、この貝っぽいもみじおろしが大変おいしく、ワサビなくてもうまいな、などと感じていた。
あご野焼の「あご」とはトビウオのこと。あごだしのあごがこれ。おいしい。醤油にトロミがついていたが、これもまたおいしい。いい食事でした。
私がペーパードライバーなばかりに(以下略
ここではお土産を買いました。
雲が低い。山陰だからなのか、見えないものの存在を感じるような………
ひたすらに前へ。山を縫って、道は続く。
菅谷たたら。
私の興味に付き合ってもらった。
『もののけ姫』のたたら場のモデルの一つであると言われる(※ジブリはモデルを明示しないので、「言われる」と表記するのが恐らく正しいと考えている)
ここの高殿(鉄を熱し、精錬が行われる建物)は唯一現存するものであり、その点でも大変興味深い。ここの職員さんの解説がこれまた面白く、尋ねればどこまでも返してくれそうな、そんな気配さえあった。どうぶつの森のフータみたいな。
ここの玉鋼は粘度はじめ質的に大変優れていたそうで、ここの玉鋼が南へと輸送されていったそう。後出する倉敷もこれを書くにあたり調べていたらどうやら刀剣の製造が盛んであった様子だし、薙刀で備州のもので国宝認定されて残っている刀剣や、鹿児島に渡った備前の刀匠の作である太刀があったように、備州は刀鍛冶に強みがあったが、そういったものをはじめとして鉄製品の生産が盛んになる下支えはこういったたたら場、そして良質な鉄資源の存在があったのも大きかったのだろう。刀剣に限らず、銃火器の部品にここの玉鋼でないといけないものがあったらしく、戦いの時代の中にあってここのたたら場は隆盛を極めていったよう。
ここは言うなれば工業団地であり、鉄鋼の生産過程における必要な人員はこの周辺に全員住まわせて職人たちの「住」を保証し、鉄師にとっては経営の安定化を図る側面があった、とパンフレットに記載されている。
玉鋼の精製におけるそれぞれの役割は世襲によって固定化されていて、特に鉄の具合を見極めて火力を調整することで品質にかなりダイレクトに影響力を持つ「村下(むらげ)」というポジションは、その火力の見極めなどの細部については一子相伝の形を取っており、一定回数連続して質の悪い鋼をなすとその任を解かれてしまう、というペナルティも存在したという。
この話を聞いていてもかなり閉鎖的な集落で、身分や職業の固定化、それに伴う諍いはおそらくあっただろうし、政略結婚的なものや、ロミオとジュリエットのような愛憎劇もあったのではないかという話を氏ともした。返す返すもなかなか強烈なシステムの集落で、それもまだ1世紀ばかりしか時の隔たりが無いというのが驚きだ。
時代の流れと共に隆盛を誇ったこのたたらも衰退し、1921年を以て操業を停止したそう。盛者必衰を表すかのような、ある種の儚さをたたえた場所が、この菅谷たたらでもある。
3日目(倉敷~児島~帰郷)

さて、倉敷まで輸送してもらって、そこで親友氏とはお別れ。たくさんのテールランプの中に車が溶けていって、どれがどれか分からなくなってしまう瞬間と言うのは、今回に限らず何度見ても寂しいものがある。道すがらだからと倉敷に快く送ってくれた氏には改めて感謝。
余談だが、表題のプラス1とは松江滞在中に思い立ってこの倉敷滞在を決めたという経緯から。せっかくなら岡山も経由地に留めずに多少は歩いておこうという魂胆だ。前日に酷かった雨は上がったが、ひとりの一日と思うとこれまた寂しいものがある。




美観地区。
周囲に高い建物もそこまでないから、本当に昔に迷い込んだような風景と空気感を味わえる。苔むした階段とママチャリにすら風情を感じる。
倉敷芸文館。
倉敷と言うと私が真っ先に思い浮かべたのは「倉敷藤花」という女流タイトル。なのでここは訪れたいと思っていた。私は将棋の戦法もあまり理解していないけれど、棋士の方々の思慮深さ、紡がれる言葉が大変に好きで、それを味わうためにたまに将棋を覗いたりもする。一時期は自分で指せるようになろうとも思ったのだが、定跡が覚えられずに断念した。文法を覚えるのが苦手なタイプなので……でもここを訪れたのを機にもう一度頑張ってみようかなという気もする。多分思うだけだけれど……



大山康晴記念館。
こんなものがあるとは知らなかった。大山康晴は当然存じ上げている。鬼才・升田幸三と時代を築いた名士であった。その故郷であるここに、大山康晴へのリスペクトも込みで女流のタイトル戦を、ということで「倉敷藤花」が置かれたというのは存じ上げなかった。 年表も置いてあって大変面白かった。『助からないと思っても助かっている』というフレーズは、将棋の終盤で劣勢な局面であってもまだ窮地を脱する道は残されているはずだからあきらめず頑張れ、といった意味の言葉だが、広く人生に通ずる言葉であると思う。改めて大変力を貰えた。こういう言葉との出会いも大切に生きていきたい。

悩みに悩み抜いた結果、こちらで\23,000のジーンズを購入。
私は服に無頓着なので、こんなに金をかけるのも珍しいのだが
・親友氏のデニムがかっこよかったこと
・前からジーンズちゃんとしたやつが一本ほしかったということ
・あとはジャンプで連載中の『WITCH WATCH』でモリヒトがジーンズ語っているのを見て、いいなぁ~と思っていたこと
など、複数の要因で今回の決断に至った。たくさん仕事して稼がねば……
縫製の工夫で裏がストライプになっていて、めくってもかわいい。上下セットアップにしたかったがそんな金はどこにもない。(上も良いなと思たやつは35000くらいした)
ひとまずめちゃ汗かかない限り3ヵ月は洗わずに履いてくれとのこと。一度目の洗濯での色落ちが楽しみ。長く履いて育てたいと思います。最近買ったsuicaペンギンTシャツにも合うので履くのもたのしみ。
次に倉敷か児島へ赴いた際は上も買って、究極のセットアップを完成させるのだ……
冗談抜きで、この一本でそれなりに決まって見えるのは大きい。私は衣替えを得意としていなくて、あるものを適当に着るので、おしゃれに無頓着に映ってしまうし、実際自分がそういう見え方をしているのは分かっているのだが、自分の色彩感覚や合わせの感性は別にそう変なものではないと思っているので、今後は理解を実践に移せるように、少しずつ衣服にも気を遣っていこうと思う。正直この旅行の服装はそこまで気を遣っていなかったから……旅の伴侶たる氏はきっといつに増してやばいなこいつと思っていたことだろう。まぁいつも私変だけど。今後は気を付けていきます……もうギャンブルはダービーを以てしばらく休む(詳細は後述)ので、その間はそういう身の回りのことに気持ちを向けていきます……そういう意味でもいいきっかけになった。いい買い物だと思う。



倉敷駅。
美観地区のテイストを引いている。

乗った列車。
ということでいったん岡山に到着。ロッカーに荷物を突っ込もうとするもさすがは新幹線駅、空きロッカーが全然ない。忘れていたが今日は日曜日でもあった。仕方なく次の目的地までキャリーを同伴……
ところで、ゾーンに入る、という表現がある。
アスリートなんかは、意図的にそこに入るように訓練をするようだが、私は何のプロでもないので、そういった感覚は気まぐれにやってくる。ふと車窓を流れる田園風景に目をやった時、前日までの思い出が去来して噴き出すように感情が高まった。これが噂の……といった感じ。
鳥取砂丘のキャプションの骨子は、そういう状態でこの列車に揺られながら綴ったもの。我ながらいい言葉が並んでいる。自賛。たまには自賛もしないとね……
思い返しつつ、帰りの新幹線でここに書き足しているが、もしかしたら飢えでゾーン(もどき)に入るのかもしれない。
今日は特に、楽しみが終わった燃え尽きからなのか、朝からほとんど物を口にしていない。どこかにも書いていたと思うが、胃の入り口や喉が、きゅっと締まるような感じ。私が私の体を操って26年になるが、この胸の締まりや痞え(つかえ)が自覚できたのは社会人になってからだ。今までの暮らしというか、それまでの環境やテンポには戻れないのだと悟ったとき、失ったものや後悔が一気に押し寄せるような心地があって、体が食べ物を受け付けなくなった。これを書きながら自分のこれまでをさかのぼっていたが、失恋をしたときにも似たような症状があった。
今回は恋など全くもって関係ないのだけれど、察するに私は、一人が怖いのだと思う。楽しみにしていた時間の終わりが怖いのだと思う。
楽しい時間を過ごせていたことの証拠でもあるからとても喜ばしい事だけれど、楽しい時間が思い出になることを心が受け止め切れていないんだと思う。たとえるなら今この痞えが出ているのは崖から落ちている状態で、またどこかに着地したり、何かにつかまったりできるまではこの状態が続いていくといった具合だ。私の生活が少ない構成要素で成っているからこうなってしまっているという自覚もあって、他にももっと楽しい事や楽しみなことを作っておけばもっと強く在れる気がする。そもそもこんなにも考えすぎず、ふらふらと鷹揚さと共に生きていけばいいのだという気さえもする。特段、氏とは話が弾んでしまうし、面白い時間が過ごせてしまうから、毎回会うたびに充実感の分だけ強くこの感覚が出る傾向にあるが、思い返せば氏に限らず、楽しみなイベントが終わった後とかにはこういう症状が出てくる。今回はこの旅を人参に、4~5月の大きな仕事を乗り越えたのもあって、余計にだったのだろう。いい事なんだけどね。整体の揉み返しのようなものだから。
私は人に会うとき、毎回『それが最後かも』と思っているから、余計にそうなのかも。とはいえこんなのを毎度毎度やってしまっては体がいくつあっても足らない。対症療法として半夏厚朴湯という漢方でごまかしているが、それもいずれ限界が来るだろう。いい意味での鷹揚さや楽観的な考え、感性を少しずつ取り入れていかなければならない。
それにしても、四半世紀を生きても、私は私の心身のメカニズムに何も理解が至っていないんだな、とこれを書きながら絶望している。何だか脱力した感じがあるし、眠たさもあるんだけれど、でも眠れない。気持ちの高まりを感じるような、終わりに向かっているような、不思議な感覚。多分、正常な他の方や、落ち着いている私がこの文章を見たらきっと奇怪に感じることだろうとは思う。
でも私は今、そういった浮遊感の中にあるのだ。

列車を降りて階段を登る。
右手を見ると、特急やくも。
出雲市行きの文字が。上に記したノスタルジーに溺れる私に、「どこに行ったとて、私たちはまたそこに至る事ができる。全ては気持ち一つだ」と言われている気がした。技術の発達で、未知や未踏の領域は大変少なくなった。科学的事実はさておいて、世界には、想いを馳せ、夢想する余白も無くなりつつある。その寂しさから、技術の進歩は情緒の後退だとさえ思ったこともあったが、こうして輸送技術の進歩で思い出への道筋が確かにされるというのは悪くない。うん。悪くないものだと思った。





目的地はBR児島。
24場踏破を目標にしているので、岡山に来た以上は、と思い立ちよった。
施設は1Mより半分が建て替え工事中で平和島のようになっている。ボートも今建て替えの時期に入っているのだろう。競馬も最近は阪神京都と立て続けに建て替えたし、競輪場も中四国や京都向日町をはじめ建て替えが進んでいる。
ここに至る道も含めて、かなりオールドな雰囲気が残っている場で、券売機もかなり少ないし雰囲気が落ち着いている。スタンドも上がればよかったのだが、おそらく津のような感じだろうと思う。あまりものを食べていなくて、わかめうどん(500か600)が染みすぎて立ち上がれなくなってしまった。場内を歩き回る気力もなかったし、いつものように歩き回ろうという発想が出てこなかった。
体力的なものもあったとはいえ私にとってこれはおかしいことで、私は本当に、本来自分が公営競技に対して持っていた熱いものを覆い隠してしまうくらい、ギャンブルそのものに飲まれてしまっているのだということを、薄々とあった予感が実感に変わった瞬間だった。
最近収支的にうまく行かないのもあるだろうし、お金が無くなってきたこともあるのだろうが、どうも昔のような燃え上がる感じ(お金的な面では無く)や、公営競技そのものに対する気持ちの入り方が無い。こういう時にいたずらに賭けてもお金が無くなるだけ。 10万馬券を3月に取った時は、自分の競馬への理解……展開と心理や競馬の歴史そのものでもある血統への理解が形になった気がして楽しかったが、気がつけばその達成感も射幸心にすり替わって、気が付けば額を追っていた。燃えるようなところも無くなってきたし、いたずらに掛金を増やしてヒリツくことで感覚を取り戻して楽しもうともしていた。でもそれは正確には、労せずして金だけを得ようとしていただけだったのかもしれない。射倖心に飲まれていた。
今、いざ冷静になってみると、それは私が楽しみたかった公営競技の形ではない。特に競馬は。『キャッシュバックもありえるスポーツ観戦』『自分を投影して楽しめる”ドラマティックスポーツ”』それが私の理想とする、世間の中での公営競技の位置と形の一つ。でも今の私を見てみると、私はただの博打狂いだ。昔から勝負は好きで、自分の積み重ねが結果に出るのが楽しかった。でも今は、度が過ぎていると思う。
競馬のダービーデーを最後に、公営競技はしばらく距離を取ろうと思う。
競馬は見続けないとできるようにならないし、一日3Rほどを目安に予想は載せていくが、お金は当然控え目の額にして、その日の一食分が浮けばハッピーくらいにしておきたい。もっと自分の中で知識を増やして理解を深める期間として、今まで避けてきた馬体、産駒ごとの特徴とか、そういった感覚的なところを勉強しておこうかなと思う。
上で軽く触れたが、金銭的に、去年の夏あたりから熱くなりすぎて、かなりの金額を溶かしていることも理由として大変大きい。のめり込まないようにやってきたつもりだったけれど、積み立てを少し解約したりもしてしまって、さすがにそろそろマズいなと思い始めていた。貯金をしないといけない歳にもなってきたし、人生はこれだけに捧げていいものではない。保守的な生活に魅力を覚える訳ではないし、私がかなりの額を溶かしたのも経験として別に悪かったと思っていない。学生の時も、奨学金で株の運用をして、ボラの高い銘柄に突っ込んで安倍晋三辞任を食らって死にかけたこともあったから。「早大卒で勉強がちょっとできる堅物」にはなりたくないし、こういう身を切った経験は何らかの形で私の糧になるということに疑念はない。
ただ、こういう旅の中での体験のように、インプットを増やして、思考を増やして、人間を大きくしていく期間というのを私は人生でそう多くは取ってこなかったから、旅や読書や音楽や、人生の趣味と呼べそうな自転車に、もう少しお金と時間を入れる期間を少し取っておきたいと思った。私があこがれる堅物でない人物とは、ただに大雑把な人間ではない。自分の考えを言葉にして自覚し、その上で考えを示したり話ができる人。引き出しが多く、笑顔を引き出せるひと。エトセトラ。私はそういう人間になりたい。そして、やっぱりこのブログを書きながら思ったが、自分の感じたことを言葉として綴ることはとても楽しい。知らない表現を知っていくことは楽しい。そしてそれをわがものにして、使えた時もこの上ない幸せがある。こういう「幸せ」にもっと対面できるように時間を使っていきたい。
文章が散らかったが、そういうこともあって、しばらくは公営に限らないインプットの期間として、賭け事としての公営競技からは少し距離を置く。インプットに主体を置いた期間を、意図的に設ける。
とはいえ、繰り返しだが、公営競技が私の人生の大きな柱であり、他者と共有したい感動であることに変わりはない。公営競技での感動をもっと味わいたいし、伝えられるようになりたいという気持ちは不変だ。またこのフィールドに帰ってくると思う。押してダメなら引いてみる。近くて見えないなら一歩下がる。のめりこみやすい(金銭的にも心理的にも)性格の私だから、この休養期間がきっと、より公営競技の魅力を理解するひとつの助けになると信じている。
ということで、このBR児島は、訪れた順に多摩川→江戸川→平和島→福岡→下関→芦屋→浜名湖→津→常滑→蒲郡→大村→若松→尼崎→びわこ→住之江につぐ16場目にして節目の地となった。
また私の中で私の立ち方、生き方が定まったときに、デニムジャケットを買うついでにまたここに訪れたいと思う。
旅行とは関係のない部分が多くなってしまった。失礼しました。

写真ではわかりづらいかもしれないが、かなり急こう配の自転車通しと、却って危ない気さえする謎のとっかかり。
ヤマダ電機が駅チカにあるとすごい郊外って感じがする。
締めがヤマダ電機の写真で大変申し訳ないが、これ以降は執筆と力尽きてとを繰り返していたためとくに写真はない。
無事に帰郷出来て何より。
これを書き終えたのは旅行から戻った翌日。明日から私はまた4日間仕事で、2回泊まり込みの仕事が挟まっている。
今もまだ余韻の中にある私で、あれこれ考えやすい状態になっているから、多少忙しい方が却って良い。熱しすぎたならいったん冷やすことも重要なのだ。
少しずつ現実の空気を吸って感覚を取り戻しながら、人生をまた進んでいこうと思う。
少しずつ、少しずつ……
もしここまで読んでくれた方がいたなら、大きな感謝を。
ありがとうございました。
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