久々の観劇なので感想を。。。。今回の日記はこれをもって替えます。時間がなかった……
観劇をするのはいつ以来だろうか。記憶に無い。社会人になった年、2021年のLes Misérablesを帝劇で観たというのが、劇場で観た最後なのでは無いかと思う。四季のある街に住みながら、まさか4年も観劇から遠ざかるとは……ミュージカル映画はそこそこに観ていたんだけれども。

常滑やセントレアに行くときに通過する駅、くらいの印象だった太田川に降り立つ。

なかなか立派な建物。
今回観劇したのはブログのタイトルにもあるとおり『The MUSICAL BONNIE&CLIDE』
期せずして大千穐楽。2ヶ月ほど前?東京公演に足を運んでいたらしい友人のインスタで存在を知り、すぐチケットを取った。
『俺たちに明日はない』の邦題でだいぶ昔にアメリカで映画化、輸入もされている作品で、いまのおじさん層には一定の認知がある。余談だがボートレース江戸川のレトロ映画ポスター集の中にもこの映画のポスターが存在する。
個人的にだいぶ思い入れのある作品。というのも
5年前、中学高校の同級生の企画・翻訳で『BONNIE&CLIDE』を参考にした演目(お察しください)に参加したことがあったから。今思えばその翻訳は大変秀逸なものであったと改めて感動する。いい作品でした。私が演じたのはテッドという警官。ここを見届けるのが今回の一つの目的である。曲がりなりにも演じる側であの世界を生き、観る側としてあの世界を観て、今こうして文字を残しているのはなかなかに感慨深いものがある。ありがたいね。
ちなみに今回観劇するBONNIE&CLIDE は当然作曲フランクワイルドホーン、作詞ドンブラックであるが、訳詞はなんと高橋 知伽江!!この名前にピンとくる方は私と仲良くなれる。高橋先生と言えば『Let it go』をはじめ近年ディズニーで多くの訳詞を手掛けるほか、舞台方面でも劇団四季『アラジン』などの訳詞を手掛けている方。要は大御所。パンフレット買ってクレジット見ていたら名前あってびっくりした。ここでも楽しみが倍増というもの……
入場待ちのロビーとバンドリハ室が同フロアにあり、防音室の扉の開閉にあわせて時折楽器の音色が流れてくる。ミュージカルが始まるのだという高揚感を覚えるのも、実に久しいこと。既に楽しい。
一つ悲しかったのが物販。これは完全に私の責。こういう物販って現金のみだったよな。すっかり忘れてた。帝劇はギリカード行けたかもしれないけれど、すっかり忘れてた(2回目)
持ち合わせ、3300円。ロンT3500円。買えない。オンラインストアを見る。品切の二文字。切ない。無力さゆえに外道を歩みそうになった。危ない。『ボニーとクライドと私』になるところだった。私はお金がない時、右の眉は下がらない。
指定、後発で取ったので席の位置は覚悟していたが2F最後列通路側という幕間に人権がない席。これは仕方ない。
位置的にはセンターからやや上手側、俯瞰する位置。視力低下著しい私だが、舞台は見えるし、むしろ人の動きを広く観ることができるので、これはこれで良い席だったかもしれない。

演者さん、Wキャストについてはこんな感じの回。
内容で言うと、ちょっと現代っぽいアドリブが私的にはあまり……特にクライド。バックとのやり取りは軽いものでなくてはならないというか、緊張と弛緩の弛緩の部分、つかの間の安息的な部分もあるけれど、そういう方向へ走ってしまうと先がない……と個人的には思う。安易な笑いの取り方にも見えたし、どうしても軽く見えすぎてしまう。笑かす部分でもごもご、下手なオードリーの若林みたいな笑いの取り方をしていたようにも見えてしまって……もう少し咀嚼の時間が必要だったのかもしれない。彼もそうだと思うし、もしかしたら受け手の私にも。歌もそこまで好きとは思わなかった。Bonnieというバスタブで歌う曲があるのだけど、あれはもうちょっとしっとり歌った方が曲主役にハマれないと演目にハマれないのは私の悪い癖。直していきたい部分の一つだ。
海乃美月さんはお見掛けしない名前だと思ったら、宝塚から出てきて一発目がこれらしい。歌はさすがにお上手。声量おおきめな部分やロングトーンがやや振り回し気味であったり雑なシャウトに聞こえてしまう部分があったが、公演巡業終盤だったからなのかな。宝塚をあまり見たことが無いのでわからないけれど、トップまで行った人だし、素質はかなりなんだろうなと思う。
一方でしっとりしたところは絶品。Dyin'Aint so Badなんかはかなり良かった。
そしてテッド。テッドもWキャスト。私の回は太田将熙さん。細川護熙以外で熙の字を初めてみた。あとさり気なく千葉出身で同郷。アミューズ所属なので私の大好きなサザンと同じ事務所ということにもなる。いいね。
不器用なのがこの役者さん自身の人柄なのか、テッドを表してなのかわからなかったけれど、メリハリがつきすぎている感があった。テッドという平面上にないみたいな……私の表現の限界で、大変感覚的なところなのでこれ以上に書きようがない。ただ、伸びしろのある役者さんだな……という感じ方だった。もう少し高い音まで届くようになるといいですね(自分棚上げ)
過去を見ているテッド、夢……未来を見ているクライド。恐慌の時代にあって、余計に二人のコントラストというのは映えてしまった。私も現状維持に幸せを感じられるクチで、今の関係や環境が心地いいならそのままで行ってしまうタイプ。テッドはかなり私っぽいので好きだ。でも優しい事や保守的なことと、主体性が無い事はまた別で、テッドはちゃんと嫉妬もする。石橋を叩いて渡っているだけ。その「だけ」が大きいのだけれど。
昔みたいに戻れたら……と思うのは誰にでもあると信じている。私も結構それが顕著で、しょうもない例だが、初恋の人と付き合って別れてからは結構引きずった。結構、というにはあまりにも長かったので、大変病的だったと自分でも思う。でも、そういうのは愛の深さの裏返しでもあると思う。理屈っぽく言えば、新しく一歩踏み出す力と、一個前の愛の根深さが全くの対極の方向へ向かうベクトルとして力が働いているのだとしたら、どんなに踏み出す力が強くても、根深い愛に引っ張られるのだ。これは私への赦しを見出したいって部分もあるのだけれど……
何にせよテッドは、人を深く愛せる人だったと思う。ひとつの正しい道を知っていた人だったと思う。刹那的ではなく、ながく続く幸せを望んだ人だったのだと思う。
ただ、時代はそれにそぐわなかった。時代は、テッドの理想を「絵空事」と断じるに十分なほど、「その日1日を生きる力」を求めさせた。安定を目指すには、脚元の一日はあまりに脆すぎた。テッドの堅実さは、恐慌の時代にあっては暗中の灯にはならなかった。前を向くには、踏みしめる今日の安定感ではなく、一筋でも「明日」に光るものが必要だった。思い出と愛だけでは、暗中の彼女にとって何の足しにもならなかった。
その切なさと健気さに私は惹かれるし、同時に今の幸せと、過去の苦しさを感じる。
その切迫感……いま日本を生きてこれを見られる環境にある我々が易々とこう書くのは気が引けるものがあるが……にあってこそ、生は光を、瑞々しささえも持つ。花火のようなというと月並みだが、刹那的なものでも一瞬の、力強い(そう見える)輝きに心を奪われるのは、人間の性、さらに言えば、生存のための選択を生き延びている動物たるものの本能なのか。その生の光を、夢で煽る。俯瞰してみれば、それは燃え尽きるのを早めているにすぎないのだけれど、それすらも見えなくしてしまうほどその光を欲していたのがその時代で、それに縋らざるを得ないほどの暗さが立ち込めていたのもまたその時代なのだと察する。『進撃の巨人』のケリー・アッカーマンの言葉の通り「何かに酔っぱらっていなければやっていられなかった」のだ。ちなみにだが、マシンガン・ケリーと呼ばれる酒の密造から銃の製造、果ては殺人まで犯したマシンガンケリーと呼ばれる罪人も、ボニーとクライドが生きる時代とほぼ時を同じくしていて、もしかしたらケリーという名はそこから来ているのかも。これは完全な余談で、思い付きでここに書き残してしまったもの。放念いただきたい。
生きる時代、考えの違い。切ないまでの行き違いと交錯がこの演目のひとつの魅力であり、受け手たる我々が考えさせられるところのひとつでもある。
不景気、争い、様々な困難が依然として現実に在る今にあって、彼らの破滅的な生き方は、私達の人生を考える入り口になる。

プログラム(結局買った)
ボニーとクライドの史実を追う記事は中々読み応えあった。が!
歌詞の掲載がなかった。ミュージカルのプログラムってあんま買わないけど、やっぱ掲載ってないものなのか。高橋訳を楽しみたかったから有り金(文字通り)はたいて買ったのに……残念。
やや締まらないが、今回はこれで。
また来週の記事でお会いしましょう……