土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

映画における「主題歌」

「真面目な記事はそう書かない。」

そう思っていた時期もあったが、東京国際映画祭で『夜明け告げるルーの歌』を観て、映画と主題歌についての考えが巡ったのでまた映画ものでひとつ書きたいと思う。

(あまり『夜明け告げるルーの歌』には言及してないがそこはご愛嬌)

 

 

はじめに

 

 近年の映画において、主題歌というものは不可欠になりつつあると思われる。主題歌というものそれ自体は映像の形ではないけれども、紛れもなく映画の一部であって、その存在も映画の評価に一定の影響を与えることに疑問を差し挟む余地はないと考える。

 

しかしその選定にあたっては、作品の一部としての視点はもちろん、産業としての映画として、興業の一部としての視点もあるだろう。

今回は私なりに、映画における主題歌について考えて行きたい。

個人的な考えの羅列であるため、こんなのもあるのね、程度に見ていただければと思う。

 

一部映画についてはネタバレがある。中でも『君の膵臓たべたい』については核心的な部分についてのネタバレがあるので、気になる方はここでご退出されることをお勧めする。

 

映画の主題歌の種類

 

主題歌は、おおまかに以下のように分けられる。

 

①話題性を重視したもの

②映画の内容に沿わせたもの

 

もちろん、主題歌を名乗るからには必ず内容に沿わせるが、その沿わせ方が違う。

以下でそれについて見ていく。

 

①話題性を重視した主題歌

 

①は「集客特化の主題歌」とも言える。

例えば恋愛映画に、売れているアーティストや話題性のあるアーティストのラブソング調の歌を起用するといったように。

直近でいうと、例えば11月9日公開の映画『ういらぶ。

原作は初々しい恋を描いたお話である。

これの主題歌は『High On Love!』(King&Prince)

 となっている。歌詞はこちら。High On Love! King & Prince 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索

(いかにもジャニーズ)

歌詞をご覧頂ければわかると思うが、恐らくこれは映画の主題歌ではあっても内容に沿ったものではなかろうと思われる。

もちろん細部を見ればここが!とかあそこが!とかありそうなものだが、全体として、一曲を単位とした時、その話への関連性は薄い。私はこの手の主題歌をダメだと批判する訳ではないが、映画の魅力を増大させないという意味では些か残念ではある。

 

この楽曲、"We love"のフレーズが「ういらぶ」に聞こえるというもので、得てしてこのタイプはそのワンフレーズのゴリ押しであることが多い。(私はカモナマイハウスゴナカレー式と呼んでいる)

キャッチーにする事で受け手の興味を喚起するためだ。

CMのような短い限られた尺の中では、印象付けという意味でこの手法は多用されるし実際効果もあるだろうが、映画という、割と時間的制約が無い媒体で用いるには少し力不足である感は否めない。

主演の俳優と主題歌歌手(多くはグループ)が同一である点も個人的にはイマイチである。商業的意図というか、セット商法のように見えてしまう。

役者自身が詩を書いていたり(山崎まさよしの『月とキャベツ』における事例)、埋もれた名作を発掘する=とりあえず人目に触れさせたいという意図があったりするのならまた話は別だが。

(埋もれた名作はこの手法をしてさえも興行的に博打であるからそもそもこのパターンはあまり起こりえない)

この主題歌歌手=演者パターンは、その歌手のファンがそのまま映画の鑑賞者にできるため、興行的に数字を出したいときには便利ではあるが、そこで主眼に置いているのはあくまで「集客」であるから、どうしても質がおろそかになる。

私が言いたいのは、この手の「集客特化の主題歌」は集客こそすれリピーターは生まず、また主題歌がただの添え物と化してしまうということである。

これでは主題歌がその主題歌である必要性、必然性が無くなり、それは主題歌の主題歌としての価値を損なうことになる。それに留まらず、映画の価値を最大化できないということにもなり得る。

「終わりよければ全て良し」というように、最後が締まらないとせっかく良い映画でも印象が良くならないと思う。

映画も興行によって利益を得て初めて成り立つものである以上、この型は無くならないものであるだろう。初動というのはその先の追加上映やメディア展開、すなわちその作品の商品としての価値に大きく影響するからである。

しかし映画を、作り手の意図・メッセージを受け手に伝える媒体として考えたとき、やはり作品の一部としてその質を高める役割を主題歌も担うべきであると思うし、これを疎かにしてはならないと思う。興収優先主義は映画の進歩を遅らせ、ともすれば退化させることにもなりかねないだろう。その意味で、私はこの①のタイプの主題歌をあまり好ましく思わない。

 

②映画の内容に沿わせた主題歌

ひとことに映画の内容に沿わせた主題歌といっても種類がある。ここで取り上げるのは

❶その作品のために書き下ろされたもの

❷その作品に合う既存のもの

の二つ。

 

❶だと、例えば2017年の『君の膵臓をたべたい』の『himawari』(Mr.Children)や2018年『ペンギン・ハイウェイ』の『Good Night』(宇多田ヒカル)がある。

himawari

himawari

Good Night

Good Night

 

(『Good Night』については考察記事がある。ご参照頂ければ、いかに映画に寄り添っているかがわかると思うので是非)宇多田ヒカル 『Good Night』考察〜アオヤマくん考察と共に〜 - とある大学生のブログ

 

❷であれば2007年の『秒速5センチメートル』の『One more chance, One more time』(山崎まさよし)や2017年『夜明け告げるルーのうた』の『歌うたいのバラッド』(斉藤和義)がある。

歌うたいのバラッド

歌うたいのバラッド

 

これらのパターンは、内容で興味喚起するタイプの映画であったり、原作モノであったりと、主題歌担当アーティストのネームバリューで集客する必要が無い場合に取られるように思う。(厳格に調べたわけではなく、あくまで体感)

『君の膵臓をたべたい』は最たる例で、このタイトルで泣けると言われれば大小あれ興味は惹かれるし、小説原作なので原作ファンの鑑賞もある程度見込める。

上の二つのパターンの差は、主題歌の誕生が映画より先か、後かという点にある。主題歌というものが書き下ろしでない以上、この差は当然と言えば当然に生まれる。既存楽曲を主題歌に起用することの利点としては、主題歌と映画のストーリーとの関連性を人工的に深めて作ることができる点がある。例えば『夜明け告げるルーのうた』での『歌うたいのバラッド』は劇中に何度も主題歌が登場する。公式に語られたことはないが、恐らく主題歌の歌詞に合わせたストーリーの調整もあったことと思われる(というより、調整無しにあの作品の完成は有り得ないだろう)

②映画の内容に沿わせた主題歌 という大別に支障をもたらすものではないから、書いておきながらもここではこの類別にここまで入れ込む必要もない。が、せっかくなので一応書いておくと、❶は楽曲の作り手の、❷は映画の作り手の技量が、それぞれ主題歌と映画の相乗効果を生む上でより重要になってくる。

(本筋から逸れるが、個人的に、新海誠作品は作品と主題歌があまりにマッチするものだから、主題歌からストーリー作ってるんじゃないかとか考えたりするものだがどうなんだろうか。❶にあたる『君の名は。』然り❷にあたる『秒速5センチメートル』然り、驚異的な出来であるように思う。脚本というものは本当に大事であると再確認する)

長くなったが、この②パターンの最大の魅力は、何より映画の魅力を最大限に引き出すことができる、ということに尽きる。

 

私の考える主題歌の在り方

①のところで少し示唆してしまったが、私は断然に「書き下ろし派」である。

書き下ろし楽曲は、つまるところその映画(もしくはその原作やシナリオ)から生まれた曲であるから、登場人物の心情であったり映画の中の世界であったりを、映像ではない形で追体験させることができる。主題歌はエンドロールで流すのが最近の主流であるから、最後に聴くことで映画を回想し、その余韻に浸ることができる。

上でも書いたことだが、最後の締まり方が綺麗かどうかというのはやはり映画作品の印象を形成する上で大きな要素を占めるように思う。

(この点において今年7月の『未来のミライ』は失敗であったと思う。OP/EDの合わせて二曲を書き下ろしという贅沢仕様であったが、タイトルを冠した『ミライのテーマ』を、あろうことかOPで使ってしまった。コース料理の主菜を最初に持ってきたみたいな印象。CMで流されていたのもこちらであったから、目玉を先に持ってきてしまったことによって頭でっかちになってしまった感があった)

 

偉そうに語るが、本当に優れた主題歌は「映画において語られなかった世界」を歌詞という形で描写しさえするものだと思う。無論、自然な形で。(不自然でこじつけた詞を持つ曲はたとえ書き下ろしであろうと優れているとは到底言い難い)

これを主題歌による映画世界の拡張と呼んでみようかと思ったりするが、この際その呼び方に拘る必要は無いので特別定めることはしない。

私の言うところの優れた主題歌の例としては、(選曲から主観ゴリ押しということがバレてしまうが)やはり『himawari』と『Good Night』を挙げたい。

二つの映画と主題歌を鑑賞すれば分かると思うが、この2つの曲にはある共通点がある。

それは、「映画を観る前と後で歌の意味合いが違って見える」ということだ。

 

『himawari』は一見すると好きな人を失った人を歌ったラブソングである。

実際映画のことを知らなくても非常に良い楽曲であることに疑念を差しはさむ余地はない。むしろ私は初めてこの曲を聴いたとき、かっこいい曲じゃんと思っていた。

しかし映画を見た後その詞をもう一度見ると、主人公の心情にこれでもかとぴったりと寄り添っていることがわかる。

歌詞の中の『僕』はそのまま映画の『僕』、『君』は『咲良』であることが読み取れるだろう。この、歌詞内の登場人物を映画のそれと一致させる、というところまでなら並のアーティストでもやりそうなことだが、桜井和寿はここからが違う。

想い出の角砂糖を 涙が溶かしちゃわぬように

僕の命と 共に尽きるように

ちょっとずつ舐めて生きるから

(一年も前なので記憶はおぼろだが)劇中で僕の感情表現は、咲良の仏壇の前で涙と、手紙を見つけた時の涙だけであったと記憶している。これらは「起きた」出来事に対する感情であり、これから先=未来に対する感情はほのめかす程度にしか描かれなかった。

「きっと彼はこれからも咲良を忘れずに生きていくんだろうな~」と誰もが思うことだろう。この漠然とした感情を、終幕の向こう側で生きる『僕』に対して持ち、映画は終わりを迎える。そしてエンドロールで『himawari』が流れ、引用した詞が聞こえてくる。そこで、この映画(とその登場人物)に対して持っていた漠然とした感情が具体化され、回想される。そしてまた感動が再帰するのである。

つまりこの主題歌は、鑑賞者が映画に持った持つ抽象的な感情を具体化するにとどまらず、作中で描かれなかった「その先」を自然に描写している点で秀逸なのである。

 (余計な話。あまりに映画にフィットしすぎてしまったせいなのか、はたまた元からその意図があったのかは知らないが、この曲のMVはなぜか戦争を想起させるものとなっている。正直ラブストーリー感を前面に出してくるかと思っていたので面食らった。MVは、映画からこの楽曲を引き剥がそうとしているものなのではないか?と考えているが真相はいかに……)

 

『Good Night』の秀逸さについてはここで。

宇多田ヒカル 『Good Night』考察〜アオヤマくん考察と共に〜 - とある大学生のブログ

上の記事で書いていない点で秀逸な点を挙げるとすれば、この曲が完全に映画のためだけに作られた楽曲であるという点がある。

もちろんこれは公式に語られていることではないので、「ほ~んそんな考え方もできるね」くらいに考えてくれればよいのだが、この曲、『ペンギン・ハイウェイ』を観ていないと「いい感じの曲」で終わってしまうと思いはしないだろうか?

(歌詞はGoogle検索すれば出てくるのでご覧いただきたい)

サビに至ってはGoodbyeとGood Nightの繰り返しである。歌詞もどこか具体性を持たない感じがする。描かれる情景の関連性や意味合いが掴めない。

この曲は楽曲単体で完成する世界を持ち合わせていない。

『himawari』は、ふたを開けてみれば作品に沿っていたというだけで、曲の中だけでも一つ物語が完成している。

しかし『Good Night』は前提として映画を観ていないとその曲の物語が掴めない。

歌詞が語る情景は浮かぶが、だから何なのかがわからない。

映画なしに曲の世界の完成がないのである。

つまり、映画を経由して曲の世界が完成するという意味で、

「映画を観る前と後で歌の意味合いが違って見える」のである。

 

だが上述した点によって、この曲は曲単体でのセールスを捨てかねない。

(現にシングルカットはされていないが、iTunes等でバラ買いはできる)

しかしここにこそ、アーティスト宇多田ヒカルの矜持が見えやしないだろうか?と思うのである。

 

アーティストも食っていかねばならないし、売り上げへの意識はすなわちプロ意識であるから、何も非難する気も罵倒するつもりもないし、むしろそれについては貪欲にやってほしいとさえ思う。(Mr.Childrenは先述した楽曲において一般ウケと映画との親和を両立した点で非常に巧い)

しかし、商業としての音楽・売り物としての音楽という考えが表現者にもその受け手にも浸透しつつある現代にあって、「一般ウケ」に片足残したような中途半端な曲ではなく、「完全にその映画のためだけの歌」を書き下ろしたという事実に、彼女の「アーティストの矜持」が垣間見える気がしてならない。

シングルカットせずにアルバム収録曲としたのも、シングルにする以上ある程度一般ウケさせなければいけなくなるからではないだろうか。

単なる個人の意見であるから、先に述べたようにさっと流していただいて構わない。

ただ少なくとも私は、『ペンギン・ハイウェイ』を鑑賞し、この曲を聴いたとき、彼女がトップアーティストたる所以に触れた、そんな気がしたのである。

 

長くなってしまったのでここらでまとめるとしよう。

私は主題歌について、

「映画の延長線上にあり、映画のその一部として、余韻の醸成に留まらずその作品の価値を最大限に高めるもの」

であるべきだと考えている。

 

 

 

 最後に

ここまで冗長に私の意見を綴ってきた。ここの時点で6000字を超えている。

ここまで読んで頂いた方に対して心からの感謝と、よくぞ!という称賛を送りたい。

よくぞ!こんなところまで読んでくださった!感謝に堪えない。

 

さて本題へ移る。皆さんにはもう少しだけお付き合い願いたい。

 

皆さんは映画の主題歌についてどのような考えをお持ちだろうか?

映画の主題歌というのは、人の手によって決められるもので、そこには選定者の何らかの意図が介在する。その点においてこそ、主題歌は映画の一部分たりうる。

映画の主題歌というものは往々にして情緒的で、壮大で、我々鑑賞者の心を奪い去っていく。しかし、そこで「いい曲だった」とか「いい映画だった」といった感想で終わらせてしまうのはいささか勿体ないと思う。

私が語れたクチではないが、「この主題歌はどうして選ばれたのだろう」とか「この詞はいったいどのようなことを表現しているのだろう」といったように、映画と主題歌を相互に関連付けながら鑑賞していくことによって、映画体験はさらに豊かに、そして深いものになっていくことと思う。

ぜひ、拙記事を読んで頂いた方々には、これから先の映画体験で、映画の主題歌について少しでも思いを馳せていただければと思う次第である。

 

 

最後に+α

 

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