土俵際競馬愛好会

相撲と競馬と銭湯と映画を愛する男の隠れ家的日記

ミュージカル『HEADLINE』終えて〜わいの役について少し書く〜

ミュージカル『HEADLINE』に参加しておりまして、無事8/31に千秋楽を迎えました。

これを見ている方にご来場頂いた方がいるかは疑わしいけれど、もしいらしたらありがとうございました。

 

終わったので、日記的につらつらと適当に書いておこうと思う。読みにくいだろうが、そもそも論考記事のつもりはないので悪しからず。

あと、ネタバレが含まれます。嫌な人はここで回れ右してください。

 

 

 

 

 

さてこの舞台『HEADLINE』は、ボニーアンドクライドのお話を基として作られたもので、楽曲についてはBonnie and Clydeのミュージカル版から転用している。

今回の演出・脚本・企画が私の中高の同級生でして、その縁で参加した訳なんですが、いや待て、書いてて思うが演出・脚本・企画を一人に集約してるのヤバいよな。ヤバい。才覚ある人なんですよね。

 

で、お話はざっくり言うと、女優を夢見るボニーと伝説になりたいクライドが出会って、犯罪者として名を馳せていって……みたいな話。ごめん要約するにもどこから切り取っていいか分からないんだ。ウィキを見てくれ。史実がベースなので。

 

 

今回私はテッド・ヒントンという警官の役を演じたのだが、またこの役が切ない。本稿ではテッドについて書いていこうと思う。

 

テッドはヒロインのボニーに想いを寄せているのだが、上述の通りボニーは犯罪者となってしまう訳で、職業柄彼女と敵対しなくてはならなくなってしまう。彼女を想う気持ちと、警察としての正義を貫かねばならないという使命感の狭間で、テッドという人間は苦しみもがくのである。

テッドはおしなべてお仕事に私情を持ち込む人間で、そういう意味ではなんとも人間臭い。好きな人のために突っ走るという表現が正しいかはわからないが、好きな人のためならばなんでもやるタイプの人間であるように思う。上官も登場するのだが、上官に対してもボニーについての話ばかり。彼の行動原理は、一点の曇りもなくボニーなのだ。

ちなみに、このキャラクターを演じ、作っていくにあたってかなり参考にしたのが相棒の初代相棒 亀山薫である。寺脇さんのあの感じが欲しかった。手に入らなかったけれど、なかなか効果はあったように思う。実際のテッドはどうだか知らないが、この舞台においては少なからずテッドと亀山くんに似たところはあると思っている。相棒は初代派です(誰も聞いてない)

 

 

さて、テッドはほぼソロで1曲、ソロパートのある曲が1曲、ソロ曲のリプライズの計3回ある。

ここでソロ曲 You can do better than him(今作での題は『彼はふさわしくない』)について少し書く

 

(テッド)

警告するぞ お先真っ暗だボニー

君の夢何も 彼は叶えられない

 

乱暴無謀で 問題ばかり

彼は忘れろ

美しいボニー 考え直すんだ

 

彼はふさわしくない

君といるべき男は 正義貫く者

純粋で 希望に満ちた君

こんな苦労しなくていい

間違った道を 行かないで

 

(クライド)

俺じゃない誰かといれば

こんな思いはしない

君を幸せにできる そんなやつと

だけど

 

(テッド)

だけど

 

(テッド・クライド)

誰がどう言おうと

君を愛する気持ちは

決して変わる 事はない

 

こういう歌。テッドの純粋な気持ちがここで表れているように思う。好きな曲。

この曲は(私の解釈では)時間止まる系の歌(歌ってる間時間止まってる系の歌)で、テッドの想いが漏れ出してきた結果歌になったものだ。

つまり、この曲はボニーには聞こえていない。

彼が思うことを、彼の心の中で反芻しそれが歌として漏出しているに過ぎない。

クライドも最後の節では同じ歌詞を歌う=同じようなことを考えている訳だが、それはミュージカル的ミラクルなわけで、この曲は実際のところの流れる時間の中で歌われているものとは考えていない。

 

この曲で実は大事だと思っていたのが、ボニーに聞こえていない、という事。

テッドという人間は、ボニーに「あいつはやめとけ!」と強く言えない人間なのだということがよくわかる瞬間であると私は認識していた。(表現できていたかは別として、ね)

 

ボニーは夢を諦めることはしないし、そうすると決めたらそうする、芯の強い人間であるということをテッドは良く知っている。

だからこそ持ってしまうボニーに何を言っても無駄だという諦念。

一方で犯罪者と共になっているという状況下でさえボニーの幸せを祈る(ボニーが幸せなら良い)あまり何も言えないというテッドの愚かしくもある優しさ。

この2つが入り混じった結果がこの歌で、結局ボニーには事実として何も言えないけれど心中では「君を一番愛してるのは俺だ!俺がふさわしいんだ!」と叫ぶのである。

意気地なしだ!とか、本当に想っているのなら口で伝えるべきだとか言う人もあるだろう。

しかし私は、テッド・ヒントンのこういう遠回しな所、心の中に秘めた想いを口にできないところに愛すべき不器用さや葛藤を感じずにはいられない。

 

しかしながら、この「思っていることを口にできなかった」という事実は大いにテッドを後悔させる。

 

お話の最終盤、テッドは、罪を重ねたボニーを殺さなくてはならないという局面に立たされる。

彼の頭の中にはきっと『彼はふさわしくない』の曲の場面が浮かんだに違いない。

あそこで強く言っておけば、もしかしたらボニーを止められたかもしれない。殺さずに済んだのかもしれない。彼の頭の中には取り返しのつかない後悔が溢れていただろう。

もう戻れない日々、取り返せないボニーを想ってテッドは『彼はふさわしくない』のリプライズを口にする。

 

純粋で 希望に満ちた君

昔から夢見ていた 明るい未来

 

この歌を口にした後、テッドは銃を手にする。それは彼女を殺める覚悟であり、彼女の未来を断つ覚悟である。

彼は、自分が想う人の未来を自らの手で断つことで、彼の想いにけじめをつけようとしたのだ。それは彼なりの彼女への愛に他ならない。

書こうと思ってタイミングを見失っていたのでここに書くが、『彼はふさわしくない』を歌うタイミングにおいて、テッドのボニーへの想いというのは単なる恋慕であって、いかに詞中で愛すると歌っていようと、それは単なる恋ではないのだと背伸びしただけであった、と私は考えていた。簡単に言えば「ボニーたんしゅきしゅき〜〜」というだけなのである。

時は進み、状況に深刻さが増していく。

最終局面と呼ぶべき局面に立たされたとき、彼の恋慕は初めて愛と呼ぶに足るものへと進化を遂げる。ここでいう愛とは、他者を想い、それを行動に移すこと、詞の内容を借りれば、他者のために己が「正義を貫く」ことだということにしておこう。

皮肉な事に、当時足りなかったものを、同じ旋律で、最後にテッドは知る事になるのだ。

 

ここまで書いてるとなんだか泣けて然るべきだという気がしてくるし、事実稽古中もそういう思いはあったのだが、いかんせん私は泣きの演技というのができない。Pretend≠Actという教えを受けた私は、Pretend泣きは要らないな、という結論に至り、結局泣かなかった訳だが、泣けてたらもっと素敵なテッドがそこにいたやもしれないと考えると少し残念な気もする。

 

 

ちょろっと書いて終えようと思ってたらもう3000字を超えていた。流石に長すぎる。

時間があればまた他のことも書こうかな。

とりあえず今回はここまで。

見返すとぐちゃぐちゃな文だな。まさに殴り書き。

果たしてここまでこの冗長な文を読んでくれた方がいるかは甚だ疑問だが、いたら心から感謝を示したい。ありがとうございました。